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【雑記】たべちゃいたいくらいにスキなんだ

今日は身体性について考えていました。川上未映子のエッセイやら対談やらを読んでいて、そこから。

ラカンのね、言葉についてとか身体についての基本的な考え方って男性目線のものでしょう?それを、川上未映子はどこか感じさせるのにどこまでも女性的だなぁとも思うのです。

それで、私はふと「生まれ変わったら男として生まれたいか女として生まれたいか」と考えたときの事を思い出した。

つい最近のことなんですけれど、最初に思った事は「女がいいな。女性の身体が良い。美しいから」

なんでだかわからないけれど、私は女性の身体が美しいなって思います。でも男性の身体には何も感じない。何というか、女性は体という存在そのものが好きで、男性はその身体を持つ主体が動きを持ったときに「あ、好き」と思ったりします。


男性は動きと身体がいつでもセットになっているの。いつでもくっついてる。それは逆に、身体の存在を感じる事がないということなのかもと思ったの。一緒すぎて、自分の身体が存在しなくなってしまう。


女性は、あるいは私という女性だけかもしれないけれど、時々体とその中に存在しているものがちぐはぐだったりどこかへ飛んでいってしまったりする。でも、それであっても身体はちゃんと身体として存在し続けている。


なんかとっても不思議だなぁと思うわけです。

だから私は自分の身体を大事にするけれど、それはなんとなく自分を愛するという感覚とはもしかしたらちょっと違うかもしれない。

よくわかんない。


それでね、話は変わるけれども私は実生活で直接会ったり関わりを持ったりする人たち。彼らとは身体同士がコミュニケーションを取っているような感覚です。

でも、一つ何かを隔てた世界…たとえば言葉とか絵とかスクリーンとか。そういう中でだけ存在する人たちとは、身体じゃない部分で関わりをもっている。

だからちょっとムズムズしてしまいます。普段顔を合わせる事がなくて、それでも身体じゃないところで良く知っている人たちに実際に会ってしまった時。


本を読んでいて共感したりするのは、主人公やナレーターや登場する人たちの頭の中を、身体を通さずに感じる事が出来るから。

実生活では直接そうやって頭の中と頭の中を溶かし合うこと、出来ない。そうすると、身体を介することになります。膜、のようなもの。

身体を介さないつながりのある人たちには、「好き」という感情があまりわきません。好き、ではなくて、なんというか、じんわりと自分と一緒になって心地がいいなという感じ。温泉のような感じ。私と相手の境界線も無くて、私という確固たるものもない。流動体のようなもの。


身体を介する人たちへは好きとかキライとか、色んな感覚を覚えます。そしてそれがとても楽しい。個と個。

でも、どちらも両方知ってしまうのはちょっと怖い気持ち。私の身体が、どろどろした私の中身に侵食されて、すべて溶けてなくなってしまうような気がして。あるいは、私が相手もろともすべて呑み込んでしまうのかもしれない。


なんていうか、原子炉のなかでゆっくりとたゆたう核の部分のような、そんな怖さをうちに秘めています。だから身体は身体として存在してて欲しいと思います。


おわり。

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