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走るボク マカピーの日々 #1444

マカピーです。
ただ走るのが楽しかったのです。

マカピーは小学校4年生になるまで自転車に乗れなかったのです。

農家で育ったマカピーですが、たいがいの友達は小学2年生くらいではもう自転車に乗りまわっていましたから、かなり遅いのでした。

三歳違いのマカピー兄も同じでスイスイと行くその後を、彼と一緒に遊びたいマカピーは兄に連れて行ってもらう必死について行きました。

それは、マカピーは小学低学年で兄に体格的に追いついてしまっていたので彼の漕ぐ自転車の後ろに乗る事はちょっと難しかったという理由もありました。

もちろん自分でも自転車に乗る挑戦はしました。

でも、一度こっぴどく転倒してしまってからそのトラウマから数年も頑なにトライする事を拒否する意固地な性格でもあったのです。

ヤレヤレ

兄も、兄の友達も後追いするマカピーを拒否せずに受け入れてくれたのは本当にありがたい事でした。

家族と帰省した際に、群馬で兄の友達が来ていて「そういえば、マカピーはいつも走ってたよね」と当時の事を思い出してくれ懐かしく感じました。

それを聞いていたマカピー長男が「お父さん、どうして走ったの?」と尋ねてきました。

「それは、ボクが君くらいの年になってもまだ自転車に乗れなかったからなんだ」

「へー、そうだったんだ」

マカピーは子供たちの前では「何でもできる大人」に映っていたのだと思うけれど、次第に「ローラースケート」も「スケートボード」も出来ない普通のオジサンになって行くのでした(笑)

マカピーはそうした走る事が普通になった小学生低学年から「足の速いマカピー」になってはいましたが、それは持久走に強いタイプでした。

近所の田中三兄妹(長男、次男、長女)はマカピー母に言わせると「あの家は私の同級生だった父親の○○ちゃんが学校一番の俊足だったから、子供たちもきっとその遺伝したんだろうねえ」というくらい評判の家系でした。

そもそも彼らのランニングのフォームが他の児童とは全然違うだけでなく、リレーなどを見ると無駄のない動きやのびやかなその足の長さは目を見張るものがありました。

兄と同級生だった田中長男はその後、棒高跳びの日本有数な指導者として有名な存在となっています。

マカピーは短距離走でもそれなりの速さでしたが、中学生になるとひょんなことからバレーボール部に入ります。

それは、かつての近所の遊び仲間だった上級生がいたからという単純な理由でしたが。

マカピーが一年生の時には関東大会の群馬県予選で二位となり東京に行き、マカピーもレギュラー出場した二年生の時には中体連の県大会で二位となるなどとても素晴らしい成績を残していたんです。

ところが、マカピーがキャプテンをした三年生の時には市町村大会を勝ち抜くことが出来ず県大会出場も出来ない成績となってしまい、とても不甲斐ない気持ちでした。

ところが、田舎の中学校ですからバレーボールの大会でなくとも県大会に出る機会があったんです!

それは、校内での成績が良かった陸上競技の400m走でした。

その時、マカピーは初めて県立陸上競技場のトラックを走ったのです。

スターティング・ブロックを使ったことはありましたが、他の競技者がスパイクのあるシューズを履いているのを見た時には恐怖しました。

「あんなので、蹴られたら怪我しちゃうよ!考えただけで痛そう!」

かくいうマカピーはいつものオニツカのバレーボールシューズで出場していたくらいですから(笑)

県大会に出させてもらいましたが、マカピーは自分の成績なんて全く気になりませんでした。

ともかくピストルが鳴り出走しても、スパイクのせいで集団内にいるのが怖かったのですが、コーナーでスパイクの威力を思い知らされます。

そうか、コーナリングでグリップの効くスパイクが必用なんだ!

と、今さらながら知ることになりましたが、すでに遅しでもちろん決勝に進むことはありませんでした。

何と更にもう一つ県大会に出たんです。

駅伝でした。

マカピーの同級生のヤマちゃんというスターがいたから市町村大会を勝ち進んで県大会に出ることが出来たとも言えますが、駅伝はご存知の通り一人だけでは成り立ちません。

そもそも駅伝のチームが編成されたのは夏のメインの競技大会が終わった二学期の半ばでした。

陸上部はあるにはあったのですが100m走にでるスミちゃん以外に数人という部員の少なさだったので、バレーボール部のマカピーが400mに出場したくらいなのです。

駅伝チームはこれまでの3000m走の記録を参考に、バスケットボールのヤマちゃんや野球部のイクちゃんそれにマカピーなど予備をいれて6人位の混成チームだったと思います。

校庭での走り込みの後、日暮れ時顧問の車で自衛隊演習場のある未舗装のアップダウンのある所まで出かけたのを思い出します。

そこが、市町村大会の会場だったからです。

何とマカピー達のチームは僅差でそれまで常勝だった隣町のチームに勝って県大会にコマを進めたんです。

ヤマちゃんの走りは、マカピー達のとは全く違うバンビのようにピョンピョンと急登を行く能力にありました。

マカピーにはとても真似る事の出来ないヤマちゃんの走りです。

心底、抜群の走る身体能力の違いを見せつけられた気がしました。

後年、ヤマちゃんとバスケットボール部のチームメイトだった幼馴染のシゲちゃんが語ってます。

「アイツのスタミナにはびっくりしたよ。県大会の準決勝でオレはそれまでの連続した試合での疲労から足が痙攣して退場するピンチだったんだ。オレがそれまでポイントゲッターだったんだけど、その後はヤマちゃんが全部シュートを決めてくれたから勝てたんだ」

確かマカピーはその試合を応援に行って見ていたはずでしたがそんなことがあったのを知りませんでした。

駅伝はチームの総合能力が問われるだけでなく、区間ごとのゲームの駆け引きがあるとても面白い競技です。

しかも、各自のその競技日のコンディション調整も大切ですけど、精神的な影響もあります。

当時の中学校レベルではそれほどではありませんけどね。

たとえば必死に走ってはいますが、自分の息遣いや風の向きなどの他にも沿道の声援もちゃんと聞こえてきます。

県大会会場は伊勢崎市にある華蔵寺公園の外周を回るコースでしたが、マカピー達の学校のある区域とは遠く離れていたので縁者も少ない土地柄だから声援なんて無いものと思っていたのです。

ところが、意外にも「○○中、頑張れ!」という言葉を聞いた時にどんなに励まされた事か!

さすがに県レベルになるとヤマちゃんレベルのランナーを配した学校が多く結果的には上位入賞にはなりませんでした。

それでも、本来のバレーボール以外にもこうしたいろいろな経験が出来たのは今でもとても楽しい思い出です。

そんな事を思い出したのは、池井戸潤さんの「俺たちの箱根駅伝」を聞いたからでした。

そうだ、ヤマちゃんはその後高校の陸上でひざを痛めたのですが、復活して大学では見事箱根駅伝に参加したんです。

凄いなーヤマちゃん。

もしかしてマカピーがそうした競技に関わることが出来たのは、自転車に乗れなかったので走らなくてはいけなかったマカピーに訪れた幸運だったのかも知れませんね。

マカピーでした。
最後までお読みいただき感謝します。きっと良いことが起こるよ!










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