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日本だったら、たぶんやらない

私は昔からわりと、他人との距離が無駄に近くなるのが苦手だ。近所付き合い、商店街でのやり取り、友達の友達。

30歳をだいぶ過ぎてから、ようやく人並みにコミュニケーションがとれるようになったが、自分からすすんでやるか、と言われたら今でもやらない。

別に人が苦手とか自分に自信がないとか、ましてや人見知りとかではないと思ってはいるけれど、ただ単に億劫なのだ。愛想笑いが死ぬほど苦手だった若かりし頃をちょっと引きずっているのかもしれない。

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そんな私が、挨拶を交わすようになったばかりのメキシコ人のお店の前で、椅子に座っているという不思議。場所は、朝9時から開いている小さな自動車修理工場。

50代~60代のおじさんたちと時節言葉を交わしながら、椅子に座って犬たちが激しく遊んでいるのを見ているだけ。以前だったら、居心地が悪くて仕方ない状況である。

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最初に会ったのは確か5月の半ば。そう、つい最近。朝の散歩に出かけたそのとき、お店の前で小さな白い犬を連れたおじさんの横を通りかかったのが始まり。

お互いの匂いを嗅いですぐに遊びだした犬たち。これってよくあることなのかもしれないけれど、このときは違ってた。私の犬オメガも、その白い犬も、他の犬とじゃれ合うことがこれまで殆どなかったのだ。

私が心の中で(「珍しいな、オメガがこんなに遊ぶなんて……」)と思っていると、おじさんたちが騒ぎ出した。

「おい、みんな見ろよ!カミラ(白い犬)が遊んでるぜ!可愛いなぁ、おい。」

私からしたら、仕事に取り掛かろうとしていたおじさんたちが、小さな白い犬が遊ぶのが嬉しくて集まってくるほうが、むしろ可愛い。そんな微笑ましい光景を眺めていると、(犬の)名前やら歳やら種類やら散歩コースやら、次から次へと質問が飛んでくる。

私のスペイン語は素人に毛が生えた程度なので会話がどこまで成り立っていたのか怪しいけれど、楽しそうな犬たちを見てまたここに寄ってみようと思った。

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そして2度目の昨日。

お昼過ぎに通りかかったら、おじさんたちは忙しそうに仕事をしていた。それでも、私を見つけた一人が店の奥からカミラを連れて出て来てくれた。少し立ち話をしたけれど、仕事の邪魔をするのが申し訳なくて「その紐(犬をつないでいる紐)私が持ちましょうか?」と声をかけた。

すると、「悪いな!それは助かる。椅子持ってくるから店の前で座ってなよ。」と言われ、気付いたら不思議な(上の写真のような)光景ができあがっていたのだ。

仕事がひと段落したおじさんたちが一人また一人と現れ、今度は私の名前を聞き、歓迎のダンスを(おじさんが一人で)踊り、通りかかった売り子からピーナッツを買ってくれたりした。中には頑張って英語で話しかけてくれる人までいる。

『いつでも来てくれよ。あと、椅子は店の中にも外にもあるから、好きなとこに座ってな。あ、あとオメガの糞の袋はそこの缶に捨てていいよ。』

なんていうか、ある意味至れり尽くせり。

過度なもてなしや気を遣ってずっと隣にいられたりするのは私もノー・グラシアスなんだけど、おじさんたちも仕事があるからその心配もない。なんというか、ちょうどいいのだ。

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そういえば、フランスに住んでいる誰かが、

日本は暮らしやすいが、生きにくい。
フランスは暮らしにくいが、生きやすい。

そう書いているのをTwitterで見かけた。

私にとってのメキシコも、今のところそれに近いのかもしれないと思った。インフラや行政の手続きやどこかの店舗の対応の悪さ、国の抱える様々な問題や犯罪率の高さ。ここで普通なものは、今の日本では全然普通ではない。

そしてきっと、そのほうが絶対良い。

頭ではわかっているし、それが「日本より40年遅れている」などと言われるメキシコの現状なのだけど、なんでかな。

お店や散歩中の人から何気なくかけられる挨拶や、おじさんたちの屈託のない笑顔。なんか色々足りないはずなのに、「まぁ、いっか」と思わせるその空気感。

カラフルな民芸品や美味しい料理やお酒、遺跡や沢山の観光名所は普段の生活にほとんど関係していないけれど、それでもなお、今日はいい一日だった、と思うことができる。いつもと同じ朝が来るのが嬉しいとさえ感じる。

一日のスケジュールだけを切り取って日本に当てはめると、全然幸せなイメージがもてないのはなんでだろう。

そんなことを考えながら、「結果、今メキシコで良かったんだな」と思考が着地した日曜日でした。アディオス。

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