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茶亭羽冨/幸せになる予習、復習

胸膨らませてたどり着いた東京、それは確かに北海道の田舎街と比べれば遥かに素敵な場所ではあった。ただ「素敵」だけで楽しかったのは、最初のほんの1か月。居るだけで満たされる興奮が落ち着いてくると、この街で素敵な思いをするにはお金が必要な事実にぶちあたる。
たとえば授業で同じグループになって意気投合して、お茶でも、と言われて向かう先は学食ではなくスタバであることが多く、そこで実家暮らしの子ほど、季節限定のフラペチーノを頼む。600円超えの飲み物を頼む同級生の横で私はダイエットを理由にいちばん安くすむただのコーヒー、330円。その330円ですら、卵と焼きそば麺が買えて、それは3食分くらいにはなるから、もったいないなあ、そう思ってしまう。
大学に入学した当初は東京の大学生らしくインカレのテニスサークルに入った。ただこまかい出費が金銭的にきつく、結局最初の夏の「合宿2泊3日25,000円」に心折れてやめてしまった。バイトの時間を増やせば、また両親に頼めば、行けなくもなかった。ただ何だか、お金のことを考えるのに疲れてしまった。練習の後に開かれる飲み会に行くかどうか、や、一次会は行けても二次会や、更にその後のカラオケに行くほどのお金はなくて、毎回なんて断ろうかと考えながら、参加することに。

サークルに参加していた時間分、バイトの日を増やした。週2だったバイトを週3に。時給1,200円、賄いつきのレストランのバイトは友達に羨ましがられるけど、本当はその近くのスタバでバイトがしたかった。だけどシフトに入られる時間は限られているし、そもそも夜は早くしまるし賄いはないし、バイトの時給は1,000円台だし。苦学生はお呼びではなかったのだ。
レストランのバイトで接客する相手は、スタバのフラペチーノで迷わないような人ばかりだ。自分はいったいこの人たちのようになれるのか、と時々とても怖くなる。もし大学を卒業しても、フラペチーノが飲めない生活しかできなかったら。
金銭的な豊かさは必ずしも幸福度に直結しないというけど、本当にそうだろうか。少なくとも私はあんなに憧れていた東京の居心地がどんどん悪くなって、時々逃げ出したい気持ちになる。バイトからあがって、満員の京王井の頭線に揺られて、一人暮らししているマンションのある駅に向かって近づいている、そんな時にとても。家に帰ると、ちっとも映えない部屋に、卵や納豆や焼きそば麺、そんなものしか入っていない冷蔵庫。そこには私が憧れていた東京の要素はこれっぽちもなくて、だけどそれが私にとっての、東京の現実なのだった。

そんなぼんやりと不幸だったあるバイトあがりの夜のこと、同じバイトで同じ大学で北海道出身なのも一緒、そんな何かと縁があるミカに、もし良かったらお茶しない、と声をかけられた。ミカも私以上に「苦学生」で、バイトを他にも掛け持ちしていると聞いていた。こんな時間にあいているカフェなんて?といぶかしく思うと、ミカの行きつけのカフェがあるという。

ちょっと高いんだけど、だけど飲みに行くよりずっと安いから。

ミカが誘ってくれたカフェは「茶亭 羽當」といった。渋谷の宮益坂をちょっと上って左に入ってつきあたりの大きな植木が目立つ、渋谷なのにロッジのように木で組まれた外観はちょっと周囲から浮いてみえた。
中に入ると夜22時だというのに、テーブル席は全部埋まっていて、私たちはカウンターの一番隅のスペースに案内された。こげ茶のフローリングに、まるでリゾートホテルのような木組みの天井。店内は薄暗くて、だけどカウンターの前だけ煌々と灯がついている。
カウンターの奥はずらっと高そうなコーヒーカップが並んでいた。
目の前に置かれたメニューにはコーヒー810円と書かれていた。すごくびっくりした。
高いね、私が今まで飲んだコーヒーでいちばん高いかも、そう私がいうと、ここは、とミカが言った。

いいカップでコーヒーが飲めるんだ。前にウェッジウッドのすごいやつで飲んだの。後で調べたらコーヒーカップとソーサーで20,000円くらいだった。そんなのもう、貴族だよね。ここは私が1,000円で貴族になれる場所。

運ばれてきたコーヒーは、確かに見たこともない、美しい器に入っていた。白が基調のコーヒー皿は三日月型に桜模様が描かれていて、その片側にはカラフルな花のブーケ。一方、コーヒーカップは淡くて渋い黄色の地の上に薄い紫の大きな花。カップとソーサーの模様が揃ってないのも、カップの縁が単純な円ではなくて少しでこぼこしているのも不思議だった。
ミカのカップはそれとは全然違い、コーヒー皿は淡い緑の扇模様でカップには大振りの白い花。それも見たことがない組み合わせでとても素敵で、確かに貴族だったらこんなカップでコーヒーを飲むんだろう、そう思った。
カウンターの後ろを振り向くと、私たちみたいな学生同士は少数派で、それよりずっと上だろう、「大人」が多かった。

ミカは月に1回だけここに来ると言う。

その他の日はバイトがなければほんと納豆ごはんばっかりなんだよ、卵かけると贅沢だな、と思うくらい節約している。

親の仕送りは50,000円だけで、それだと家賃にもちょっと足りないから節約しまくっている、それでも、地元に残るよりは全然マシ。実家にいれば今よりいいごはんは食べられるけど、本当にそれだけ。そういうの、私の代で終わりにしたいんだ。

ミカの、実家のある街の希望のなさと東京に住むことの可能性、そして将来の夢を語る言葉に相槌をうちながら、私はこの場所に来るまで道のりを思い返した。ミカの実家がある街のように、イオンとチェーン店と個人商店しかない、私が育った街のこと。テレビで東京がうつるたびに自分の生まれを歯がゆく思いながら耐えた18年間。すごくいっぱい勉強して、そこそこ名の知れた大学の合格を手にして、先生とふたりがかりで親を説得して、何とか許して工面してもらった上京費用と月々の仕送りと。ここにたどり着くまでにあったことがぱーと頭の中で早送りされて、そして今と繋がった。

東京に来れて、私たち、本当に良かったよね。

ミカの言葉に私は力強く頷いた。
それから私たちは名物のシフォンケーキを1つだけ頼んだ。シフォンケーキが乗ったお皿は金の縁に小鳥の絵。砂糖でコーティングされたシフォンケーキの横には見るからに高級そうなクリームがかかっている。それをミカと半分こして、とてもゆっくり、ゆっくり食べた。コンビニスイーツとは全然違う、上等なお店のシフォンケーキ。ちょっと物足りないくらいの甘さで、それが貴族的なのかもしれない。フワフワなのに半分こしたのに、満足感がすごかった。
今日使ってしまった分の1000円ちょっとのせいで、今月の家計は少々厳しくなる。だけど、いいのだ。こんな素敵なお店で、無理すればコーヒーを飲んでケーキを食べられるくらい、本当の私は豊か、なのだ。

高2の夏までは札幌でもいいや、て思ってたんだ。地元よりは全然栄えているし。だけど修学旅行でこのお店に来て、やっぱり東京に来ようて決めた。こういうお店、札幌にはないし。
それでね、くるたびににね、私は幸せの予習をしているんだ、て思う。お気に入りのカフェがあって、自由に好きな時に行けて。
大学卒業したら、ひもじい思いをするの、絶対に嫌なんだ。だから忘れないようにここに来る。ここでコーヒーを気軽に飲める大人になる。

その後は他愛もないおしゃべりをたくさんして、そろそろ終電だよね、そんな時間になるまで羽當にいて、それからお店をいちばん最後くらいに出た。明治通りに出ると飲み会終わりか、残業で疲れたサラリーマンばかりで、そんな中、気分が高揚した女子大生ふたり組は、きっとキラキラしている、そう思えた。

前をみよう、まっすぐに前を。そしていつか、茶亭羽當に好きなだけ。

それからの私は相変わらず時給1200円でバイトして、相変わらずひもじい思いをしながら毎日を過す。それでも時々、そう、「茶亭 羽當」で、あの幸せになる予習の復習をする。

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茶亭 羽當(渋谷/宮益坂)
1988年創業の老舗喫茶店。ブルーボトルコーヒー創業者のジェームズ・フリーマン氏が「日本で一番好きなカフェ」と公言している。
https://goodcoffee.me/column/interview/20-questions-with-james-freeman

400客近くのカップ&ソーサーから、飲む人の雰囲気に合わせてチョイスした器にコーヒーを注いでくれるサービスでも有名。


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