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プロ中のプロになった幼なじみデュオ

ポール・サイモンと、アート・ガーファンクルは、二人が12歳の頃に学芸会を通して知り合った。ともにニューヨーク市クイーンズ地区で暮らし、二人の家は3ブロックの距離にある近さ。小学校から高校までを同じ学校で学ぶ幼なじみだった。

彼らが初めて人前で歌を披露したのは、13歳の時。喝采を浴びた。エルビス・プレスリーに夢中になっていたポールは、14歳の時の父に頼んで、ギターを買ってもらって熱心に練習した。

二人が17歳の時、トムとジュリーを名乗って発表したシングルが全米54位を記録し、10万枚を売り上げたことがある。全国ネットの音楽テレビ番組「アメリカン・バンドスタンド」に出演し、界隈のヒーローとなった。

それから13年後のこと。「明日に架ける橋」を書き終えたポールは、アートに「きみのために書いたんだ」と自らギターを弾きながら歌ったという。ポールの歌うファルセットを聞いて、これを気にいったアートは「きみが歌うべきだよ」と答えた。その後の詳細は不明だが、いずれにしても歌はアートが歌うことになり、また彼の助言によって2番までしかなかった歌に、3番の歌詞が付け加えられた。

歌はヒットした。70年代初頭のアメリカの喧噪を慰撫するかのように、「明日に架ける橋」は静かに広がった。しばらくしてポールは、「明日に架ける橋」のボーカルをアートに取らせるんじゃなかったとする発言をした。ふとした弾みで言ったのかもしれないし、また本意は違った所にあったのかもしれない。なにしろサイモンとガーファンクルにおいて、作品作り、サウンド作り、リード・ヴォーカルなどにおいて圧倒的な主導権を握っていたのはポールだ。アートがリード・ヴォーカルを取った歌は、数えるほどしか無い。

そういえば、トムとジュリーのささやかな成功のあと、ニューヨークの音楽ビジネスに自分一人を売り込みに廻ったことを始めとして、アートへの背信とも受け取れることを、ポールは繰り返し行っている。その一方で一時期、映画俳優の仕事に熱心で音楽の現場に戻ってこなかったアートに、ラヴソングまがいの歌を書いて歌ったりもした。

だからといって、そんなポール・サイモンが作る作品を好きになれない、などということは全くない。都会暮らしの孤独を描く腕前は一級品だ。久しぶりに街で出会った昔の恋人と、バーで一杯飲み交わす様を描かせたら、彼の右に出るものは、なかなかいない。

1981年のリユニオン・ツアーの際に、アートが歌った「明日に架ける橋」に向ける聴衆の大喝采を聞きながら、ステージ脇でポールが「ちょっと待てよ、これはぼくの曲なんだぜ」とくやしがったのというのは、よく知られたエピソードだ。2003年から4年にかけて行われた再結成ツアー「オールド・フレンズ・ツアー」においては、ステージから「アートの声のおかげで、ぼくの作品は名曲になった」とポールはコメントした。


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