見出し画像

越境する文学への旅

 長年関西地区に住んでいる私にとって、この土地の文学の文脈に対する理解の多くは、空間の移動から出たものといえる。少なくとも自分自身の体で感じたものがときに小説のテキストよりも大きくなる。

 ある年のこと、作家の莫言氏が我が家に泊まった。朝早く一緒に散歩にでかけた。鉄道の高架をくぐり抜け、芦屋川沿いを海のほうに歩いていく。谷崎潤一郎記念館の前を通りかかったとき、私が説明するより早く、莫言氏が「見るからに大山だなぁ」と言った。

 彼の言葉の意味は「日本文学の山だ」ということだ。

 ある作家を理解しようとすると、その道は二つあるだろう。一つは作家の作品、もう一つは作家の経歴だ。この二つの道は同じ川の流れの中にある。村上春樹の小説が描き出しているのは彼の少年の頃の原風景であるように。水は活きて、今も昔も変わらず途切れることなく流れ続けるが、作家の生命の意義は最終的には、やはりその作品の解読可能性というものによって放出され、それがあれば後世まで名を残し長く衰えないものだ。

画像1

  阪神沿線には文学と関わりのある風景が数多くみられる。それらは私の読書の記憶を喚起する。北京大学の学生時代に読んだ「源氏物語」もその一つだ。風景は時間の移り変わりとともに徐々に一つの心象になっていく。「心象」とは、現実そのものとはかなり違うが、同時に現実の影によって心の中に息づく真実のイメージでもある。

 たとえば初めの頃、阪神電車に乗ると沿線の風景が「直線」ばかりに思えたものだ。様々なデザインのビルが揃って直線なのは、経済的合理性の要請によるものかもしれないが、多くの文学がこの沿線と関係があることを知るようになってくると、私は徐々に「曲線」に目を向けるようになった。沿線の海と川、遠くの山と鬱蒼とした林、さらには車窓を通して仰ぎ見る青空と白い雲といったもの達だ。

 さあ、今日も阪神沿線の風景を楽しもう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?