見出し画像

音楽のMV偏重時代、そして『夜に駆ける』youtube規制と表現の自由

※『夜に駆ける』はいい曲であり、DL販売をポチったほどには私も好きである。念のため。
 
 この規制の件、5月の終わりから6月にニュースにもなった。その後作者がyoutubeと話し合い、規制は解除されたという続報があったのだが、改めて見てみたら…また規制されとる。警告ダイアログでOK押せば見れる状態ではあるが、ログインしてないと見れない&年齢制限なので主に子供は見ることができない。
 規制の理由は、自殺幇助である。アンチがせっせと通報し続けた成果だろう。歌詞だけならおそらくセーフだったと思う(スピッツ『ロビンソン』のように、心中と解釈できてしまう恋愛系の歌なんてごまんとある)が、MVの高いクオリティゆえに起きた事件だ。

 これってかなり重大な表現の自由案件じゃないの? あれ? Twitter男女論界隈では全然話題になってない。萌え絵でちょいエロじゃないし、フェミニストが抗議してないから?
 ……そんな低次元な世界は置いといて、これはTwitter社でもあったが、GAFAなど「覇権的プラットフォーム運営会社が表現を握ってしまう問題」である。今回のような規制なら、国内であればニコ動にもアップするという回避策はあるが、世界的に見ればやはり影響力がでかい。
『うっせぇわ』のMVもそのうち暴力的とかなんとかで規制されるかもね? 実は私は、別の理由でそれでいいと思っている。表現の自由案件としてはたしかに問題なのだが。

 今回の主題は音楽のMV偏重についてである。7/11放送の『関ジャム』は作者がゲストのMV特集で、象徴的だった。この記事に詳しいが、2010年あたりからボカロ曲がMV偏重になり、今や一般音楽もそうなってしまった。

 前述『関ジャム』の中でも述べられていたが、音楽は「youtubeで見る」時代なのだ。私はこの風潮に対しては保守的で抵抗勢力であり、上記記事でも述べられているが、楽曲単体(音楽P個人の能力)で再生数が伸びず、カネとコネが重要で参入障壁が大きく弊害の方が多いと見ている。
 ツイキャスでも述べた気がするが、私は新しい楽曲を真面目に聴く時、ヘッドホンで、まず音だけを聴く。動画が入ってくると評価の邪魔だからだ。
 音楽は、音を聴け。文字を見るな。そしていいと思ったら金を払え。もっと言うなら、アーティストの声を聞け。顔を見るな。

 MV偏重に関連する話として「歌詞至上主義」への、こんな批判もある。

 さて、今回の『夜に駆ける』MVは理不尽な規制だろうか? 言われてみれば、たしかに……という内容ではないだろうか。通報の動機はともかく、一定の正義にかなっている(日本より欧米の方が自殺に対して厳しい)。むしろOK押すだけで見れるのならあまり実効的でない、手ぬるいとも言える。
 前述『関ジャム』にて『夜に駆ける』MV作者が自ら語っていたが、別のMVで詳細は省くがドン引きするような演出を行なっていた。とにかくバズりたい、という行き過ぎた結果主義による動画制作が行われている。これは、どこかで歯止めをかけないといけない。消費者側もだ。作り手は「売れるため」「ウケるため」にやってるんだから。

 これを機に、音楽のMV偏重は止めませんかと問い直したい。資本主義が加速し、今はアマチュアでもMV制作が過熱している。質素なMV動画の時代の方が良かったのだ。ある意味で、音楽が破壊されている。
 こんな主張は老害と言われるか黙殺されるだろうけど、いち音楽ファンの意見としてどこかに書いてあってもいいだろう。それこそが表現の自由というものだ。