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感情は民主主義の社会でどんな役割を果たすのか?

 私たちは政治や社会に対して何らかの感情をもったり、それを表明したりすることがあります。例えば「保育園落ちた日本死ね!!!」という匿名の記事は注目を集めて国会でも取り上げられました(笹川 2016)。記事の一部を引用しましょう。

何なんだよ日本。
一億総活躍社会じゃねーのかよ。
昨日見事に保育園落ちたわ。
どうすんだよ私活躍出来ねーじゃねーか。
(「保育園落ちた日本死ね!!!」より)

 この記事では、子育てに対する国の姿勢を激しい口調で非難しています。投稿者は、記事を書いたきっかけについて「勢いですね。保育園が落ちた時の気持ちを感情のまま独り言のようなつもりで書きました」と語っています(笹川 2016)。「保育園落ちた日本死ね!!!」は、政治に対する市民の怒りの表明の一例だといえるでしょう。

 私たちは民主主義の社会における感情についてどのように考えるべきでしょうか。結論からいえば、感情は民主主義の社会で重要な役割を果たします。この記事ではそのことを述べたいと思います。はじめに、この記事の要点を示します。

Ⅰ.感情は理に適っていることもあれば、そうでないこともあり、一概に「感情は理に適っていない」とはいえません。
Ⅱ.感情は公共の議論において、他者の注意や関心を喚起するなどの役割を果たします。
Ⅲ.私たちは、民主主義の社会において公共的感情を必要としています。

 この記事はこのような流れで進みます。

※ 参考文献は記事の最後に示し、本文では著者名・刊行年・ページのみを括弧に入れて表記します。

Ⅰ.一概に「感情は理に適っていない」とはいえない

 民主主義の社会における感情について、次のように考える人もいるかもしれません。

「感情は理に適っていない。政治は理に適った思考に基づくべきである。ゆえに、政治において感情は無視されるべきである」。

 本当に感情は理に適っていないのでしょうか。結論からいえば、感情は理に適っていることもあれば、そうでないこともあり、一概に「感情は理に適っていない」とはいえません。

Ⅰ‐1.感情とは何か

 まずは、感情について、哲学者の源河亨の議論の一部に依拠して整理します(源河 2021)。なお、ここでいう感情とは恐怖・喜び・悲しみ・嬉しさなどのことです。

 源河によれば、感情は「価値を捉える思考と、価値に対処するための身体的な準備の組み合わせ」です(源河 2021 p. 69)。以下では、話を分かりやすくするために、感情の「価値を捉える思考」という側面についてのみ説明し、「身体的な準備」という側面については触れません。

 まず、感情は思考に基づいています(源河 2021 第2講)。思考がなければ感情は成立しません。例えば、あなたの目の前に小さいカラフルなカエルがいるとしましょう。実はそのカエルは猛毒をもつヤドクカエルでした。あなたがヤドクガエルを知っていて「これは危険だ」と考えれば恐怖を感じるでしょうが、知らなければ恐怖を感じないでしょう。つまり「これは危険だ」という思考がなければ、恐怖が生じることはないのです。

 もう1つ例を出しましょう。写真撮影のときに手で「裏ピース」を作る人がいます。しかし、英国ではそれは侮辱のサインとされているそうです。裏ピースを向けられて「それは侮辱のサインだ」と考える人は怒りを感じるでしょうが、そう考えない人は怒りを感じないでしょう。つまり、ある人が裏ピースに怒りを感じるかどうかは「裏ピースは侮辱のサインだ」という思考があるかどうかに左右されるのです。このように、感情は思考に基づいています。

 そして、その思考とは価値を捉える思考です(源河 2021 第3講 第4講)。ここでいう「価値」とは「生命や生活に影響を与えそうな重要な事柄」のことです(その影響には悪い影響も含まれます)。例えば、あなたがヤドクガエルを見て「これは危険だ」と考え、恐怖を感じたとすれば、その恐怖は〈身に迫る危険〉という価値に対する反応だと考えられます。なお、悲しみは〈大切なものの喪失〉、怒りは〈不当な扱いや何らかの侵害〉に対する反応です。このように、感情における思考は価値を捉える思考です。

 以上が源河の議論の一部です。まとめると、感情は思考に基づいており、その思考とは価値を捉える思考です。

Ⅰ‐2.感情は理に適っていないのか

 このように、感情は思考に基づいています。そして、いうまでもなく、思考は理に適っていることもあれば、そうでないこともあります。ゆえに、感情が理に適っているかどうかは、その感情が基づく思考が理に適っているかどうかに左右されます。

 例えば、Aさんが街を歩いていると、Xさんが演説していたとしましょう。Xさんはレイシスト(人種差別主義者)であり、街頭で「中国人は日本から出ていけ」と言っていました。Aさんが、Xさんに対して、「候補者Xの発言は不当だ」という思考に基づいた怒りを感じたとしても、その感情は理に適っていると思われます。なぜなら、Xさんの発言は人種差別であり、ゆえに「Xさんの発言は不当だ」という思考は理に適っているからです。

 一方、Bさんが街を歩いていると、女性であるYさんが演説していたとしましょう。Bさんはセクシスト(性差別主義者)であり「女は政治に口を出してはいけない」と考えていました。Bさんが、Yさんに対して、「女は政治に口を出してはいけない」という思考に基づいた怒りを感じたとしても、その感情は理に適っていないと思われます。なぜなら、Bさんの思考は性差別であり、理に適っていないからです。

 このように、感情が理に適っているかどうかは、その感情が基づく思考が理に適っているかどうかに左右されます。ゆえに、感情は理に適っていることもあれば、そうでないこともあり、一概に「感情は理に適っていない」とはいえません。

Ⅰ‐小括

 感情は思考に基づいており、その思考とは価値を捉える思考です。感情が理に適っているかどうかは、その感情が基づく思考が理に適っているかどうかに左右されます。ゆえに、感情は理に適っていることもあれば、そうでないこともあり、一概に「感情は理に適っていない」とはいえません。

Ⅱ.感情は公共の議論において4つの役割を果たす

 それでは、具体的には、民主主義の社会においてどんな役割を果たすのでしょうか。結論からいえば、感情は民主主義の社会で必要な公共の議論において4つの役割を果たします。

Ⅱ‐1.公共の議論とは何か

 まずは、公共の議論について政治学者の齋藤純一の議論の一部に依拠して整理します(齋藤 2017 第Ⅲ部)。

 民主主義は市民の意思を尊重する政治体制です。しかし、市民の意思は市民自身の利益に反する決定や少数者の権利を侵害する決定を支持することがあります。では、そのような事態を避けるにはどうすればよいでしょうか。その手立ての1つが熟議です。熟議とは次のようなことです。

熟議とは、法案や政策立案を正当化する理由を、また市民自身が提起する政策課題を正当化する理由を公共の議論を通じて検討することである。それは、多様な市民からなる公衆に向けて、政治的主張を正当化する理由を提示することを相互に求め、それが各市民の立場から見て受容可能なものかどうかを問う。(齋藤 2017 p. 187 強調は原文)

 一言でいえば、熟議とは公共の議論を通じて法や政策の正当化理由を検討することです。なぜ熟議が必要なのでしょうか。第1に、熟議を経た意思形成は、支配的なムードに同調するような仕方で形成された意思形成とは異なったものになると考えられます。第2に、少数者によって提起される理由が多数者によって受け入れられ、多数者の意見を変えるということがありえます。また、意思決定が理由の検討を経たものになれば、市民はその意思を理に適ったものとして尊重することができます。第3に、将来の市民など、現在は自分の意思を表明できない存在がいます。当の意思決定がそうした存在の立場から受容可能なものか検討することは不可欠です。

 以上が齋藤の議論の一部の整理です。まとめると、熟議とは公共の議論を通じて法や政策の正当化理由を検討することであり、民主主義の社会ではそのような公共の議論が重要です。

Ⅱ‐2.感情は公共の議論においてどんな役割を果たすか

 このような公共の議論において、感情はどんな役割を果たすでしょうか。齋藤は感情が公共の議論において果たす4つの役割を挙げます(齋藤 2012 pp. 189-190)。

 第1に「人々の感情は、それをめぐって熟議が行われるべき問題を発見し、その問題に対して他者の注目や関心を喚起するという役割を果たす」(齋藤 2012 p. 189)。熟議が始まるには「その問題は重要だ」という共通の了解が成り立つ必要があります。それには問題提起が人びとの関心を触発・喚起しなければなりませんが、それには感情の要素を含む言説や行為が有効です。

 第2に「熟議の過程それ自体においても、どのような事柄が緊要であるかの判断は、人々の感情が示す評価に深く依拠している」(齋藤 2012 p. 189)。特に「人びとの生から何が失われるべきではないか」つまり「人が享受してしかるべき諸権利とは何か」についての判断は、その喪失や剥奪に対して示される感情に依拠しています。

 第3に「感情は、熟議の過程で意見を異にする者を相手に説得が行われる際にも不可欠の役割を果たす」(齋藤 2012 p. 190)。レトリックはロゴス(正しい理由)とパトス(人の心を動かす感情)を含んだ説得の話法です。それが他者の固有の価値観や状況に配慮した言葉であれば、レトリックはその他者の心情に訴え、理由による説得を可能にし、それを実行的なものにできます。

 第4に「人々の感情に注目することは、熟議の過程それ自体が正当なものであるかどうかを省みるうえでも不可欠である」(齋藤 2012 p. 190)。熟議においてはすべての人びとが平等な発言権をもつ市民として尊重されることが求められるが、「自らの意見が顧みられていない」という感覚は怒りとなって表出されることがあります。その感情に注目することは、熟議がどんな排除や周辺化の効果をもつかを省みる上で不可欠です。

 感情は公共の議論においてこれらの役割を果たします。

Ⅱ‐3.もしも感情が顧みられないならばどうなるか

 ここでは、公共の議論において感情が役割を果たす4つの役割のうち、第1の「それをめぐって熟議が行われるべき問題を発見し、その問題に対して他者の注目や関心を喚起する」という役割について掘り下げましょう。

 ある事柄が公共の議論の対象になるのは「その問題は重要だ」という共通の認識があるときです。もしも感情が公共の議論においてまったく顧みられないならば、ある喫緊の問題が重要だと認識されず、その問題が公共の議論の対象にならないかもしれません。なぜなら、ある喫緊の問題によって強い感情をもった人が、その感情の基にある思考を的確な言葉で表現できるとはかぎらないからです。それには次の2つの理由があります。

 第1に、ある感情の持ち主がその感情の基にある思考を的確な言葉で表明できるかどうかは、その人の能力や心身の状態に左右されます。

 第2に、ある感情の持ち主がその感情の基にある思考を的確な言語で表明できるかどうかは、その思考を的確に表現する言葉がその社会に存在するかどうかにも左右されます。

 例えば「セクシュアル・ハラスメント」という言葉は昔から存在したわけではありません。ここでは、社会学者の加藤秀一の説明をまとめます(加藤 2017 pp. 154-155)。セクシュアル・ハラスメントという概念は1970年代にアメリカで発展し、1980年代に入って日本でも知られるようになりました。それまでも職場で望まない性行為を強要されたり同僚から性的な嫌がらせを受けたりする女性はいました。しかし、その被害は周囲や世間からは見過ごされ、被害者が我慢すべきものと片づけられていました。そうした被害に「セクシュアル・ハラスメント」という名前が与えられたことで、それが解決すべき問題として認識されるようになりました。日常的な性暴力を「セクハラ」と名づけて可視化することに尽力したのは、被害を受けた当事者たちでした。以上が加藤の説明のまとめです。

 つまり、ある時期まで、職場での性行為の強要や性的な嫌がらせは、それを表す的確な言葉がないゆえに解決すべき問題とは認識されなかったのです。

 セクシュアル・ハラスメントと同様に、重要であるにもかかわらず、それを表す的確な言葉がないゆえに解決すべき問題と認識されていない事柄はおそらくほかにもあると思われます。なぜなら、私たちは社会のありようを隅々まで理解し、すべての事柄にそれぞれ適切な言葉を与えているとは考えにくいからです。

 以上の2つの理由から、ある喫緊の問題によって強い感情をもった人が、その感情の基にある思考を的確な言葉で表現できるとはかぎりません。ゆえに、もしも感情が公共の議論においてまったく顧みられないならば、ある喫緊の問題が重要だと認識されず、その問題が公共の議論の対象にならないかもしれません。

Ⅱ‐小括

 熟議とは公共の議論を通じて法や政策の正当化理由を検討することであり、民主主義の社会ではそのような公共の議論が重要です。感情はそのような公共の議論において、他者の注意や関心を喚起するなどの役割を果たします。また、もしも感情が公共の議論においてまったく顧みられないならば、ある喫緊の問題が重要だと認識されず、その問題が公共の議論の対象にならないかもしれません。

Ⅲ.公共的感情は私たちを公共の問題に向き合うことへと動機づける

 それでは、感情は、民主主義の社会において、Ⅱで挙げた役割のほかに、どんな役割を果たすのでしょうか。結論からいえば、私たちがもつ公共的感情は、私たちを公共の問題に向き合うことへと動機づけます。

Ⅲ‐1.公共的感情とは何か

 哲学者の山脇直司によれば、私たちは社会とかかわる上で必要な「公共的感情」(public sentiment)をもつことがあります(山脇 2008 pp. 129-131)。公共的感情とは「他者と分かちあうことのできる感情」です。山脇は3つの公共的感情を例示します。

 第1の公共的感情はコンパッション(compassion)です。コンパッションとは「他者の苦しみを自分のもののように感じる気持ち」です(山脇 2008 pp. 129-130)。私たちは災害で被災した人たちのことを知って、その人たちを心配したり心を痛めたりします。そうした感情はコンパッションの一例です。

 第2の公共的感情は公憤です。公憤とは「他者と共有できる怒り」である(山脇 2008 p. 130)。社会の不公平や不正などに対して公憤を感じることは、社会とかかわる上で必要なことです。

 第3の公共的感情は「平和、人権、福祉などの公共的な価値(公共善)が実現したことに対していだく「喜び」の感情」です(山脇 2008 pp. 130-131)。この感情を一言で表す言葉はないが「同慶」はこれに近い言葉です。「同慶」は「他人の喜びを自分のことにように喜ぶこと」を意味します。

Ⅲ‐2.なぜ私たちは公共的感情を必要とするか

 私たちは、民主主義の社会において公共的感情を必要としています。なぜなら、民主主義の社会のおいては、私たち市民自身が公共の問題に向き合わなければなりませんが、これらの公共的感情は私たちに公共の問題に向き合うことへと動機づけるからです。

 公共的感情が、人々を公共の問題に向き合うことへと動機付けた例として、冒頭で紹介した「保育園落ちた日本死ね!!!」という記事をきっかけとする一連の動きがあります。「保育園落ちた日本死ね!!!」という記事は大きな注目を集め、Twitter では「#保育園落ちたの私だ」「#保育士辞めたの私だ」のハッシュタグに切実な声が多数寄せられ、さらに「#保育園落ちたの私だ」のプラカードをもった人たちによる国会前の無言の抗議デモも実施されました(笹川 2016)。

 こうした一連の動きの他にも、コンパッションは私たちを困窮する人びとの状況の改善に向き合うように動機づけるでしょう。また、公憤は私たちを社会的な不公正の是正に向き合うように動機づけるでしょう。そして、何らかの公共善が実現されれば、私たちは同慶の感情を抱くかもしれません。

Ⅲ‐小括

 公共的感情とは他者と分かち合える感情のことです。その例として、コンパッション・公憤・同慶があります。私たちは、民主主義の社会において公共的感情を必要としています。なぜなら、これらの公共的感情は、私たちに公共の問題に向き合うことへと動機づけるからです。

おわりに

 最後に、この記事の要点をまとめます。

Ⅰ.感情は理に適っていることもあれば、そうでないこともあり、一概に「感情は理に適っていない」とはいえません。
Ⅱ.感情は公共の議論において、他者の注意や関心を喚起するなどの役割を果たします。
Ⅲ.私たちは、民主主義の社会において公共的感情を必要としています。

 結論として、感情は民主主義の社会において重要な役割を果たすのです。

 ただし、感情が民主主義の社会のおいて重要な役割を果たすとしても、感情の高まりに対する警戒は必要です。なぜなら、繰り返しになりますが、感情の基にある思考は理に適っていないこともあるからです。

 私たちは理に適っていない思考に基づいた感情によって間違った行為をすることもあります。例えば、歴史学者の藤野裕子によれば、関東大震災時の朝鮮人虐殺の東京府南綾瀬村の事件では「国家権力がその暴力を直接的・間接的に許可したこと」に加えて、民間の人びとの「緊急時にひと肌ぬぎ、共同体のために役立ちたいとする精神」が朝鮮人殺害につながりました(藤野 2020 pp. 186-187)。

 しかし、感情の高まりに対して警戒することと、公共の議論において感情がもつ役割を認めることは、両立します。それらはどちらも必要なことであり、ゆえに、私たちには感情の無批判な全肯定とも感情の無思慮な全否定とも異なる姿勢が求められます。

 読んでくださって、ありがとうございました!

[追記1]2022年6月1日、記事の一部を書き改めた。
[追記2]2024年3月17日、記事を大幅に書き改めた。

参考文献・参考ウェブサイト

加藤秀一 2017『はじめてのジェンダー論』(有斐閣)
源河亨 2021『感情の哲学入門講義』(慶應義塾大学出版会)
齋藤純一 2012「デモクラシーにおける理性と感情」(齋藤純一/田村哲樹編『アクセス デモクラシー論』日本経済評論社 第8章)
齋藤純一 2017『不平等を考える――政治理論入門』(ちくま新書)
藤野裕子 2020『民衆暴力――一揆・暴動・虐殺の日本近代』(中公新書)
山脇直司 2008『社会とどうかかわるか――公共哲学からのヒント』(岩波ジュニア新書)

笹川かおり 2016「「保育園落ちた日本死ね」ブログの本人がいま伝えたいこと「どの党に所属していようが関係ない」」(ハフポスト 2016年03月15日)〈https://www.huffingtonpost.jp/2016/03/14/hoikuenochita-blog-_n_9457648.html〉(最終閲覧日 2021年4月16日)
匿名 2016「保育園落ちた日本死ね!!!」(はてな匿名ダイアリー 2016-02-15)〈https://anond.hatelabo.jp/20160215171759〉(最終閲覧日 2021年4月16日)

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