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政治に口を出すべき7の理由――政治学の知見から

 政治に関わることを敬遠する人は少なくない。2019年7月の参議院議員選挙の投票率は50%を下回り、48.80%だった(総務省)。この投票率は決して高いとはいえないだろう。

 さらに、政治の話をすることがタブー視されることもある。社会心理学者の横山智哉は「日本では、意見の違いが明白になることを恐れ、政治的な会話を避けている面があるのだろう」という(朝日新聞 2019)。

 しかし、私たちは政治に口を出すことをためらう必要はない。むしろ、どんどん口を出したほうがよい。この記事の目的は、その理由を政治学の知見をもとに7つ挙げることである。

※ 参考文献は記事の最後にまとめて示し、本文や注では著者名・刊行年・ページや章のみを括弧に入れて表記する。

1.公共政策の主体は市民である

 国や自治体の政策を公共政策という。ここでは、公共政策に関する政治学者の足立幸男の議論の一部を見る(足立 2003 pp. 1-4)。

 公共政策が対処するのは私事ではなく公共問題である。公共問題は時代とともに変わる。昔は公共問題だったが今は私事となったこともある(信仰など)。また、新たに公共問題となったこともある(差別、貧困、DVなど)。では、何が公共問題となるのか。足立は次のようにいう。

ある時代のある地域や国においていかなる事柄が公共問題となるか、各々の公共問題に社会のどのレベルで取り組むかは、究極のところ、市民ないし公衆〔略〕の間で繰り広げられる政治によって決まる。各々の公共問題に対してどのような行動指針(公共政策)が採択されるかも同じく政治によって決まる。少なくとも、民主主義の下ではそのことが理想として追求される。(足立 2003 p. 3)

 足立は次のように続ける。

民主主義の政治をこのようなものと理解するとき、そこで公共政策のありようを決めるのは社会構成員自身である。あるいは、公共政策の主体はお上(公儀)や政治権力者ではなく社会構成員自身であると言ってもよい。そして、このようなプロセスを通して決定された公共政策を執行するために社会構成員が設立し維持する機構こそが国や自治体の政府にほかならない。(足立 2003 p. 3 強調は引用者)

 つまり、何が公共問題か、それにどう対処するかは、市民の政治によって決まる。民主主義の政治において、市民が公共政策のありようを決める。以上が足立の議論である。

 足立がいうように、公共政策の主体は私たち市民である。私たちは、ある問題を公共問題として取り組むよう声を上げたり、難点がある政策(権利を侵害する政策や十分な根拠がない政策など)を批判したりしてよいのである。また、そうすることが求められる。これが政治に口を出すべき第1の理由である。

2.市民は公正な制度を創り支える義務を負う

 私たちは政治に関して何らかの義務を負うか。負うとすれば、それはどんな義務か。ここでは、この点に関する政治哲学者のウィル・キムリッカの議論の一部を見る(キムリッカ 2005 pp. 435-439)。

 自由民主主義の政治において、政治参加についての価値観が多様であること、また、政治以外の領域に最高の喜びを見出す人々がいることは容認される。自由民主主義は多様な価値観や生き方を尊重しなければならない。ただし、市民が政治に関して何の義務も負わないわけではない。キムリッカは次のようにいう。

政治的行為によってしか是正できないような深刻な不正が社会に存在するならば、市民はその不正に抵抗する義務を承認しなければならない。あるいは、過度のアパシー〔引用者注:無関心〕や権力の濫用によって政治制度がもはや機能していないのであれば、市民には制度が掘り崩されないようにそれを守る義務がある。不正がなされているのに、あるいは民主主義的な制度が崩壊しているのに、他の人がなんとかしてくれるだろうと考えて受動的に傍観するというのはただ乗りである。(キムリッカ 2005 p. 436 強調は引用者)

 つまり、市民は深刻な不正や制度の崩壊に対抗する義務を負う。市民は公正な制度を創り支える公正な応分の負担を引き受けなければならない。以上がキムリッカの議論である。

 自由民主主義の公正な制度はひとりでに創造・維持されるものではない。それは、私たちが創り支えるものである。深刻な不正や制度の崩壊の危険があるのに、政治に口を出すことなくただ傍観することは公正とはいえない。これが政治に口を出すべき第2の理由である。

3.統治者は国家の強制力を自分の目的のために用いる恐れがある

 ここで注目したいのは、ずばり国家である。政治学者の阿部齊によれば「現代の世界で、政治の機能を遂行する上で、最も重要な役割を果たしているのは国家である」(阿部 1996 p. 8)。国家にはどんな特徴があるか。阿部は次のようにいう。

国家の機能は、基本的には社会の秩序を築き、それを維持し、かつ外敵の侵入から防衛することにある。国家には、そのために必要な権力が付与されている。たとえば、近代以前の西欧社会では、教会、領主、ギルドといった多様な個人や集団が、それぞれ社会の秩序を維持するのに必要な権力を保持していた。しかし近代社会では、秩序を維持するのに必要な権力は、近代国家の手に集中されており、他の集団の有する権力は、その集団の目的に必要な限られた範囲にしか許されていない。(阿部 1996 p. 8 強調は引用者)

 つまり、国家の基本的な機能は秩序の維持と防衛にあり、国家はそれに必要な権力を独占している。そして、重要なのは、国家の権力には軍隊や警察などの物理的強制力が含まれるということである(丸山 2014a pp. 96-97)。国家の特徴の1つは、物理的強制力の独占にある。

 しかし、暴政によって人々が国家の強制力の犠牲になることもある。政治学者のロバート・A.ダールは次のようにいう。

政治において、おそらくもっとも基本的で継続的な問題は、独裁者の支配を回避することである。有史以来、現代をも含めて、誇大妄想、パラノイア、自己利益、イデオロギー、ナショナリズム、宗教的な信条、先天的な優越性という信念、激情や衝動などといったものにとりつかれた指導者たちは、国家のもつ巨大な能力である、強制力や暴力をみずからの目的の追求に役立つように利用してきた。独裁的な支配の犠牲になった人びとの数は病気や飢え、そして戦争の犠牲者たちの数に匹敵する。(ダール 2001 p. 62 強調は引用者)

 つまり、統治者は国家の強制力を自分の目的のために用いることがある。民主主義の政治であっても、そのような暴政に至る恐れがある。それを防ぐためには、手遅れになる前に、私たちが統治権力を監視し、抗議することが必要になる。これが政治に口を出すべき第3の理由である。

4.統治の正統性は人々の承認や同意にある

 引き続き、国家について考える。統治に不可欠なのが正統性(legitimacy)である[注1]。正統性とは何か。統治は人々が統治権力に従うことで成り立つ。しかし、物理的強制力による威嚇や制裁だけでは統治は安定しない。統治の安定のためには、人々が自発的・能動的に統治権力に従う必要がある。そして、それが可能になるのは、人々が、統治権力を容認してそれに従う何らかの根拠を受け入れているときである。その根拠を統治の正統性の根拠という。

 例えば、ある王国の国民はこう考えていたとしよう。「王様は神から王権を授かった。だから、王様の統治に従うのは当然だ」。国民は、この考えに基づき自発的・能動的に王の統治に従っていた。この場合、「王は神から王権を授かった」ということが統治の正統性の根拠に当たる。

 正統性の根拠にはどんな種類があるか。政治学者の丸山眞男はそれを5つに分類した。それは、①伝統、②自然法、③神や天による授権、④統治者がエキスパートであるという観念、⑤人民に依る授権、この5つである(丸山 2014a pp. 102-112)。上記の例は③に当たる。以下では、⑤の「人民に依る授権」についての丸山の議論を見る。

 人民に依る授権に基づく正統性は「民主主義的正統性」ともいえる。民主主義は広まり、統治権力の正統性は人民の承認や同意に根拠づけられるようになった。独裁者でさえ「真の人民の代表」を自称し、民主主義的正統性に依拠した。しかし、ある統治権力が民主主義的正統性に依拠していても、それだけでは、実際にその統治がどれほど人民の福祉に仕えているかは分からない。丸山は次のようにいう。

或る場合には人民と自己を同一化することによって政治権力は国民や人民の名に於てどんな専制的な残虐な行動を仕出かさないとも限らない。随って人民の同意ということに現代の正統性が帰着すればするほど、それだけ、私達は権力に対する監視と批判の眼を鋭くしなければならないのです。(丸山 2014a p. 111 強調は引用者)

 現代では、統治の正統性は人々の承認や同意にある。好むと好まざるとにかかわらず、私たち自身が統治の後ろ盾になるのである。どんな善政・悪政・暴政も私たちの名において為されうる。だからこそ、私たちは「権力に対する監視と批判の眼」をもつ必要がある。これが政治に口を出すべき第4の理由である。

5.有権者と政治家の間には委任と責任の関係がある

 多くの国の民主主義の形態は代議制民主主義である。ここでは、これに関する政治学者の待鳥聡史の議論を見る(待鳥 2015 pp. 12-13)。

 代議制民主主義の下では、有権者が選挙で政治家を選び、政治家が実際の政治的意思決定を行う。そして、有権者と政治家の間には委任と責任の関係がある。有権者は政治家に政治的意思決定を委任する。そして、政治家は有権者の期待や想定に応えた行動をしなければならない[注2]。その行動をしていると説明できる状態を、「説明責任」(アカウンタビリティ)が果たされている、という。以上が待鳥の議論である。

 しかし、政治家が責任を果たすとは限らない。ゆえに、有権者は政治家の行動に対して何もせずにいるわけにはいかない。キムリッカは次のようにいう。

政治権力に疑問を呈することが必要なのは、一つには、代議制民主主義においては市民が彼らの名のもとに統治する代表を選出するからである。それゆえ市民には、公職者を監視し、彼らの行為について判断を下すという重要な責任がある。(キムリッカ 2005 p. 421)

 代議制民主主義の政治において、政治家を選出し、政治的意思決定を委任するのは有権者である。ゆえに、政治家の行動を監視したり、批判したり、よく考えて投票したりすることは、有権者の責務である。これが政治に口を出すべき第5の理由である。

6.自分たちが政治権力に関与しなくても、政治権力は自分たちに関与する

 次に、人々が政治に関与しないことについて考える。ここでは、この点に関する丸山の議論を手がかりにする(丸山 2014b pp. 350-352)。

 しばしば政治権力は抵抗力の弱い所を狙う。丸山はこのことをマッカーシズムを例に説明する。マッカーシズムとは、1950年代前半のアメリカで起きた共産主義者の追放運動のことである。マッカーシズムの攻撃対象になったのは、労働組合ではなく、教育団体、新聞・出版社、ジャーナリスト、大学教授、弁護士、医者といったインテリ組織だった。なぜか。労働組合は政治的には保守的だっただけでなく、組織的な発言力が非常に強かった。一方、インテリ層は組織がバラバラで抵抗力が弱かったのである。つまり、政治権力は非政治的な団体も政治の場に引きずり込む。そうなれば、その団体は自分たちの非政治的な目的も実現できなくなるかもしれない。以上が丸山の議論である。

 この議論から次のことが分かる。自分たちが政治権力に関与しなくても、政治権力は自分たちに関与する(コロナ禍の自粛要請や休業要請もその一例だといえるだろう)。また、自分たちの非政治的な目的をするために政治的行動が必要になる場面もある。政治に口を出すことは、その行動の1つだろう。これが政治に口を出すべき第6の理由である。

7.民主主義には人々の試行錯誤が欠かせない

 最後は、人々と民主主義の関わりを扱う。民主主義が機能するには何が必要だろうか。ここでは、この点に関する丸山の議論を参照する(丸山 2014b pp. 386-388)。

 民主主義は、大衆の政治的な訓練があってはじめて円滑に機能する。また、民主主義自体が大衆の自己訓練の学校である。例えば、もしも「大衆運動のゆきすぎ」があるとすれば、それを是正する道は、大衆をもっと大衆運動に習熟させる以外にない。大衆に求められるのは、経験から学んで自分のやり方を修正していくという自己訓練能力である。丸山は次のようにいう。

つまり現実の大衆を美化するのでなくて、大衆の権利行使、その中でのゆきすぎ、錯誤、混乱、を十分認める。しかしまさにそういう錯誤を通じて大衆が学び成長するプロセスを信じる。そういう過誤自身が大衆を政治的に教育していく意味をもつ。これがつまり、他の政治形態にはないデモクラシーがもつ大きな特色であります。他の政治形態の下においては、民衆が政治的訓練をうけるチャンスがないわけでありますから、民衆が政治的に成熟しないといってなげいても、ではいつになったら成熟するのか、民主的参加のチャンスを与えて政治的成熟を伸していくという以外にない。(丸山 2014b p. 387)

 つまり、民主主義が成熟するためには、人々が政治に参加し、学び、成長するという政治的訓練のプロセスが必要だということである。以上が丸山の議論である。

 民主主義の成熟は、人々が政治に関わる経験をし、そこから学ぶことによってなされる。逆に言えば、人々がそのような経験をしなければ、民主主義の成熟は非常に難しい。政治に関わってみても、必ず成果が現れるとは限らないし、失敗することもある。しかし、民主主義は、そのような試行錯誤によって機能するようになるのである。これが政治に口を出すべき第7の理由である。

おわりに

 私たちには政治に口を出す権利がある。政治は政治家のためのものではなく、あなたや私やみんなのためのものである。ゆえに、政治に口を出すことをためらう必要はない。

 読んでくださって、ありがとうございました!

注・参考文献・参考ウェブサイト

[注1]正統性については、丸山と社会学者の山口節郎の整理を参考にした(丸山 2014a pp. 102-112、山口 2008)。
[注2]これは「有権者の意向が常に政治的決定に反映されなければならない」ということはない。待鳥によれば、それは代議制民主主義の理想ではない(待鳥 2015 pp. 250-253)。また、待鳥によれば、政治家と官僚の間にも委任と責任の関係がある(待鳥 2015 pp. 12-13)。

足立幸男 2003「トランス・ディシプリンとしての公共政策学――その成立可能性と研究領域」(足立幸男/森脇俊雅編『公共政策学』ミネルヴァ書房 序章)
阿部齊 1996『政治学入門』(岩波書店)
キムリッカ、W. 2005『新版 現代政治理論』(千葉眞/岡崎晴輝訳者代表 日本経済評論社)
ダール、ロバート・A. 2001『デモクラシーとは何か』(中村孝文訳 岩波書店)
待鳥聡史 2015『代議制民主主義――「民意」と「政治家」を問い直す』(中公新書)
丸山眞男 2014a「政治の世界」(同『政治の世界 他十篇』松本礼二編注 岩波文庫 pp. 69-154)
丸山眞男 2014b「政治的判断」(同『政治の世界 他十篇』松本礼二編注 岩波文庫 pp. 339-393)
山口節郎 2008「正当性」(今村仁司/三島憲一/川崎修編『岩波 社会思想事典』岩波書店 pp. 204-205)

朝日新聞 2019「日本人なぜタブー?政治の話 SNSで届いた選挙の疑問」(2019年7月19日)〈https://www.asahi.com/articles/ASM7D4TWPM7DPTIL028.html〉最終閲覧日:2021年5月21日
総務省「国政選挙における投票率の推移」〈https://www.soumu.go.jp/senkyo/senkyo_s/news/sonota/ritu/〉最終閲覧日:2021年5月21日

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