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母を泣かせた日

人生で一度だけ、母を泣かせてしまったことがある。私が年長の頃だ。
兄と共に悪さをして叱られたのだが、叱られてる最中に私たちがケラケラ笑っていたら母が泣いてしまった。なぜ叱られたのかも、その前後のことも何も覚えていないのに、母を泣かせてしまったという事実だけは20年経っても覚えている。

小学校に上がるまで、母の口から「お父さんに電話するよ。」という台詞をよく聞いていた。父の帰りが遅い日は好き勝手ができるフィーバータイムだと思っていたのだ。要するに、母よりも父の方が恐かったために母のことを舐めていた。もし20年前に戻れるのなら幼い自らの頬を思いっきり平手打ちしてやりたい気持ちだ。

そんな思いはあるが、母のことを叱られても恐くないと舐めていた時の気持ちも仄かに覚えている。母に叱られても、父に叱られた時のように胸が焼け焦げて涙が溢れるようなことはなかった。その違いは何なのか、いまだに分からない。
分からないからこそ、もし将来私に子供ができた時、舐められないように力で捩じ伏せようとしてしまわないかとても不安だ。父が私に暴力を振るったことは一度もないのに。

ある日ホームビデオを観た。私が1歳、兄が3歳姉が5歳の頃のものだ。姉と兄が遊んでいると、兄のテンションが最高潮になって缶のトマトジュースを持って飛び跳ねた。その際にトマトジュースがカーペットに溢れてしまった。父は最初こそ嗜める程度に「拭きなさい。」と言ったが、姉と兄のテンションは高いままで二人で笑い合っていた。次の瞬間父が
「笑ってねぇでタオル持ってこい!」
と言った。
場がピリッとしたのを感じた。
大人になった今観ると、忘れ去られてしまうはずだった日常の一コマが切り取られていて面白いな、なんて呑気な感想が言えるが、渦中に居る人はそうも言っていられないのだろう。
父の一言で一変したアパートの一室の空気を、母が和ませようとしているのが感じ取られた。兄を叱る父の威厳も保ちつつ、兄のフォローをする母を見て、涙が出そうだった。
勝手な憶測だが、私たち子供が幼い頃に、母が叱り役に回らなかったのは父とのバランスを取るためだったのではないだろうか。
そんな母を、幼い頃の私は「恐くない」と舐めていたのかと思うと悔しくて堪らない。

ちなみに冒頭のエピソードに関して後々聞いた兄の話では叱る母の背後から姉が私たちに向かって変な顔をして無音で囃し立てていたため笑ってしまったのだという。

母にあの頃のことを、心から謝りたい。

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