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情けない自分を直視することが、成長への第一歩です

※この記事は有料マガジンの特別無料版です。今日はいつもと文体変えて、エッセイ風に行きたいと思います。

まだ10代の若者だった頃、僕は一体どうやって将来を生きていけばいいのか見当さえつかずに、途方に暮れていました。誰にも認めたくはありませんでしたが、自分が凡庸などころか、平均よりも下に位置するかなりダサい存在であることは自分自身が一番よくわかっていました。何しろ生まれてこのかた勉強もスポーツも人より秀でたことはなく、何をやっても大抵のことは中の下くらいで、自分に価値を見出そうと思っても見出すに値するものなど、どこにもなかったからです。

そこで一念発起して勉強した...と言いたいところなのですが、そんなことは全くありませんでした。学校には何の意味も見出せませず、ギリギリ進級できる程度の点数を取り、授業中はボンヤリと外を眺め、放課後は友達と喋って時間を潰し....と、まあ毎日こんな感じで過ごしていました。せめて部活動に夢中ならよかったんですが、それさえせずに、部室でグタグタと喋っては時間を潰していました。

親に「あなただってやればできる」とか言われても、あまり響きませんでした。なにしろ1日の大半は学校で過ごしているんですから、親の評価よりもクラス内での序列や、友達からの評価の方がよっぽど大事だったのです。

しかし、「あいつは勉強ができる」とか「スポーツができる」といった存在にはなり得るはずもなく、それどころか中途半端すぎて「あいつはワルだ」にもなれませんでした。そんなザマでしたがから、もちろん彼女なんかいませんでしたし、友達も少なかったです。今思い出しても胸が苦しくなるくらい居場所のない若者時代でした。

何者にもなれそうにない自分にどう折り合いをつけて生きていくのか... 今の若者もそうした葛藤を抱えているのではないかと想像します。少なくとも当時の自分は、そうした葛藤を抱えていてかなり暗澹としていました。

もしも今若者だったらどうなのだろうか?

もしも自分が今の若者だったら、一体何を思って生きるのでしょうか? 時折そんなことを想像することがあります。自分をリア充に見せようと、インスタやFacebookにキラキラした写真をたくさん載せていたかもしれませんね。冴えない写真を撮ってはベッドに寝転がってそれらを加工している自分の姿が目に浮かびます。

ソーシャルメディアで思い出しましたが、今の若者はあれがキツイでしょうね。自分にはフォロワーが100人しかいないのに同級生は300人いるなんて具合に、交友関係まで数値化されるのって、仲間うちの評価だけが全ての若者時代には、かなりしんどいんじゃないかと思うんです。また、SNSがあるおかげで、比較対象がクラスの40人から、日本全国津々浦々に住む100万人近い同級生に広がるわけです。僕が今の高校生だったら、30年前の自分よりもさらに鬱々としたんじゃないかと想像します。

凡庸な自分を認めるしかない

まあでも、嘆いていても始まりません。凡庸な者は凡庸なりに、チャレンジするしかないんです。いや、凡庸だからこそチャレンジを続けるしかないんでしょうね。自分を哀れんだところで人生が好転するわけじゃありませんから、前を向いて一歩ずつ歩き出すしかないわけです。

そんな当たり前のことを僕に気がつかせてくれたのは、当時僕の弟が突然かかった難病でした。弟はスポーツの才能に恵まれ、オリンピックに出るのではと騒がれるくらいでしたが、高校1年生の時に降って湧いた難病にかかってしまい、オリンピックどころか全てのスポーツを断念せざるを得なくなってしまったのです。それでも彼は自暴自棄になるわけでもなく、淡々と日々を生きていました。全くかける言葉もなかったです。

弟のそんな姿をみて、僕もいつの間に自分に言い訳しなくなりました。諦めても、逃げ回っても、言い訳を探しても人生は拓けていってくれないという当たり前のことにやっと気が付いた感じでした。ダサい自分を受け入れて、一歩ずつ前に進むしかないのだって。

どうせあれこれやっても始まらないので、英語だけに的を絞って勉強を始めました。僕はこの頃に日本から逃げ出すように交換留学で1年間だけアメリカに住んだのですが、そこから赤の他人であるはずのホストファミリーから愛情を降り注いでもらい、この人たちを裏切りたくないような想いも芽生えたのです。

結果的には英語一本に絞ったことが功を奏してその2年後には海外への進学を果たすわけですが、凡庸な自分でも、ちゃんとコツコツやればそこそこにはなれるのだな、と初めて確信できた、なんとうか人生のターニングポイントだったように思います。

ダサい自分を認めてからが本番です

やっぱりダサい自分を受け入れてからが、やっと本番だと思うんです。今朝ツイッター見たら、かつて一緒に仕事をしていた中西さんがこんなこと呟いてたのですが、本当にまさしくこう言うことです。

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その後もしんどいことは何度もあったのですが、その都度この時のことを思い出すようにしています。這い回ってもがく以外に、成長をする方法ってないですからね。

きっと傍目からはキラキラと輝いている人でも、自己嫌悪に陥ってげんなりしてしまう日もあると思うんです。そんな時に僕らにできることって、ダサい自分を抱きしめて、立ち上がって進み出すことだけです。

当時から35年経って相変わらずダサいままの自分なわけですが、ダサいなりに頑張ってきた自分を褒めてやりたいような気がする時もあります。それは、着古したジーンズに愛着が湧いて、どうしても捨てられないみたいなものです。それに、自分が自分を受け入れなかったら、一体誰が受け入れれるんでしょうかね?

今後も別にダサくもみっともないままでいいので、何度挫けても這い上がり続けられる自分でありたいと思う、今日この頃です。

最後に映画のクリップを一つ。『クリード 炎の宿敵』の公開が始まりましたが、ロッキーシリーズで僕が一番好きなのは、ロッキー6で、彼が自分の息子を諭すこのシーンです。

それでは良い週末をお過ごしください!


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シリコンバレー、フィリピン、東京の3ヶ所に拠点を置くBrighture English Adacemy 代表、松井博が、日々あちこちで感じ…

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