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小説「カムサハムニダ」

ヨリコが結婚するという。
相手は同期の翼くんで、来月末には退職して名古屋へ行くそうだ。

どこぞのお嬢様らしい、という理由で同期の中でも少し浮いた存在だったヨリコが、大親友に昇格したのは社員旅行で行った韓国だった。タクシーでぼったくられそうになった時、あろうことかヨリコは運転手に食ってかかった。最終的に面倒くさいヨリコに根負けした運転手へ正規の料金を払ってタクシーを降りた途端、
「あ~ん、怖かったぁ」
 と、ホッとしたようにヨリコが言うものだから、
「いや、怖かったのはわたしだって!」
 と、つっこんだ。

わたしたちはおなかを抱えて大爆笑し、ホテルの部屋に戻ってその夜はふたり夜通し語り明かした。

「元気でね」
「うん、ありがとう。カエデもね」
雑踏のなか去っていくヨリコの背中を、わたしは見えなくなるまでずっと見つめていた。

わたしの気持ちは伝えられないまま、翼くんは結婚してしまうのか、とちらりとよぎった。

翼が結婚するそうだ。
相手は同期のヨリコで、先月退職して名古屋に来たばかりらしい。

同期入社だった翼が大親友に昇格したのは同期四人で行った韓国旅行で、南大門でエンドレスに買い物するカエデとヨリコに付き合いきれず、翼とふたりヨリコに教えてもらった韓国料理屋に入った。適当に頼んだトッポギがあまりに辛くて、全く食べられたものではなくて、一口二口食べたのち結局俺たちは、そのままその店を出た。
「これ…ふたりには…」
と、翼が言うので、
「うん…絶対バカにされるよな…」
と互いに頷き、韓国料理屋に入ったことは無かったことになった。その後も仕事帰りに飲みに行ったり、休みの日はドライブをしたりと、なんだかんだ、ふたりつるんで遊んでいた。

「本当にいいのか、翼」
 仕事帰り、いつもの居酒屋で翼に聞く。
「…だって、断れないだろう」
「ヨリコが専務の娘だから?」
翼はビールをぐいっとあおった。

四人で韓国旅行へ行った頃は、お互い酒なんて全然飲めなかったのにな。あっという間に大人になってしまった。お前も、俺も。

「それなら俺が、カエデをもらうからな」
「ケント…」
地下鉄へと消えていく翼の背中を、俺は見えなくなるまでずっと見つめていた。

言えない秘密を抱えたまま、俺はずっと翼の大親友のふりをするのだろうか。

「結婚、やめにしないか」

そう言うとヨリコは、鏡台の鏡越しに僕を見た。
驚いたように目を見開いている。しかしヨリコのその目からは、なんの感情も見えなかった。鏡台にはずらりと、韓国のものらしい化粧品が隙間なく並んでいる。
「急にどうしたの?」
振り向いてヨリコが言う。
「向いてないよ。家柄も違いすぎるし、僕たちきっと、合わないと思う。だから」
「でももうご挨拶もしちゃっているし。パパになんて言えばいいの?会社の取引先の方にまで招待状出しているんだよ?」

優しい口調だが、その中には反論を認めない強固さが潜んでいる。
「何よりわたし、もう無職なんだけど」

それを言われると何も言えなかった。プロポーズをしたのは僕で、仕事を辞めて名古屋に来てほしいと懇願したのも僕で、一緒に住もうと言ったのも、建前上は、、、、僕だったから。

「…カエデに相談していい?」
僕の気持ちなどお見通しだというような上目遣いで、僕を見るヨリコ。ああ、もう、いつもこれだ。
「…分ったよ、…忘れてくれ」
そして僕は静かに、寝室の扉を閉めた。

カエデと会うことは二度とないだろう。

わたしはタクシーでセントレア空港へと向かった。子供の頃から来ているから、韓国はもう庭みたいなものだった。どのタクシーに乗ればいいかも、どのごはん屋さんに入ればいいかも、どの病院へ行けばいいかも、知り尽くしている。

スマホが鳴る。
世界で一番大嫌いな男からだ。

「結婚式の支度は順調なのか」
毎度のことだが威圧的な態度に辟易する。
「余計なお世話よ」
「これで翼も取締役候補だ。満足か、思った通りに事が進んで」
いちいち癪に障る。
翼の親友じゃなければ絶縁しているところだ。
「なんのことかしら」
「まぁいいさ。愛のない結婚を、せいぜい楽しめ」
そう言って、ケントは一方的に電話を切った。

翼がカエデを好きなことは分かっていたし、ケントが翼を友達以上に思っていることも分かっていた。

でもだめ。
翼はわたしのものだ。
翼を手に入れるためだけに、どれだけの労力を使ってきたと思っているのだ。

その翼が、あろうことか結婚をやめにしないかと言い出した。ケントの入れ知恵だろうか、カエデのことがまだ好きなのだろうか。

でも大丈夫。大丈夫よ、翼。
わたしはちゃんとカエデになったから。

「カムサハムニダ。先生、完璧よ」

わたしは包帯を取り、鏡に映るカエデの顔を見た。
これできっと、翼も喜ぶはずだ。

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