エッセイ「ゴミ屋敷ではないかもしれない家について」
通勤の道すがら、ゴミ屋敷がある。ぱっと見で分かるゴミ屋敷ではない。ごくごく普通のアパートの最上階。
網戸は破け、窓にかかるカーテンが内側から何かいろいろなモノに押しつぶされているのが見える。アパートの角部屋でもう一面にも窓があるのだけれど、同じく何か、袋のようなものがいくつか積まれ、黄色のカーテンがたわんでいる。
しかし考えてみれば、ゴミ屋敷ではない可能性もある。たまたまふたつある窓際に、袋状の何かを積んでいるだけの可能性もある。
袋に入れて積むものってなんだろう。
衣替えした夏服?
サイズアウトした子供の衣類?
来客用のお布団?
布モノに思考が偏るのは仕方ない。わたしがそれらを大きなビニール袋に入れて収納しているから。
もっと柔らかい頭で考えなきゃな。
例えばダンボールに詰めて保管するようなものを、袋に入れ保管しているのかもしれない。
例えば?
卒業アルバム?
詰め替え用の日用品?
大事な書類?
それも窓枠を超えるほど、かさばるものではない気がする。
人の首…?
そこまで考えてブルブルと首を振る。
わたし、ホラーは大の苦手。
姉ふたりと深夜に見た「富江」「富江リバース」「富江ビギニング」のせいで、何度恐怖におののく夜を越えてきたか。
怖いくせに何故そんなに見ているかというと、姉がホラー大好き人間なうえ「ひとりで見るのは嫌」という理由でもう一人の姉を誘うからで、姉ふたりが並んで見ているのに妹のわたしが見ないわけにはいかないからだ。書いていても意味不明なのだけれど、そうなのだ。(ウチは仲良し三姉妹)
そういえば大学時代、◯屋敷くんという同級生がいて、よく「ごみやしき」だの「えろやしき」だの「げろやしき」だの呼ばれていた。ひどいアダ名である。いまの小学生はアダ名禁止らしい。親しみを込めて呼ばれるとわたしは嬉しかったけれど、たしかに「げろやしき」と呼ばれて喜ぶひとは居ない。◯屋敷くんは「うっせーな」と言い返していたけれど、言い返せないひとだって居るのだろうし。
脱線したがゴミ屋敷に住むひとは、意外と社会的地位が高いらしい。そしてせっかく部屋を借りているのに、ゴミ屋敷であるが故に車で生活をしていたりするそうだ。
必要なものがあれば都度ゴミ屋敷へと取りに行き、また車に戻る。「ノマド的生活」と言えば聞こえが良いけれど、心の片隅からずっとゴミ屋敷の存在は消えないのでは。
ひとが(わたしが)ゴミ屋敷に心惹かれる理由は何だろう。
部屋やデスクの汚さは、イコール心の荒れだとよく言われる。
心が荒れた時、部屋が荒れるのは、心と同じ「整わなさ」を自身の部屋に連動させる、という道連れ作用ではないかと思っている。
「心が荒れているから部屋が汚い」のではなく、
「部屋が汚いから心が荒れている」
という状態を、欲しているからだとわたしは考えている。
「荒れているのは、お前の心だけではないよ」
と、自分の心の鏡である部屋に、言ってもらえる安心感から。
だからこそ、惹かれるのだと思う。
ゴミ屋敷を見るたび「わたしは大丈夫」という安心感と「わたしの部屋もいつかは」という不安感。それが入り混じる感覚を味わっている。
意志を持って空間エントロピーを下げられるのが人間だけであるように、自分が整わないと部屋も整わない。よっぽどの人じゃない限り、整った部屋が心地良いのは間違いないので、心が回復するにつれ部屋は整って行く。整わない部屋で整わない心を持て余すゴミ屋敷の住人は、さぞかし辛いと思う。(という安心感)
明日は我が身かもしれないという思考から、今日もわたしは掃除に精を出す。(という不安感)
さて、くだんのゴミ屋敷かもしれない家は、わたしの友人により先日見事ゴミ屋敷認定された。彼女は仕事柄この十数年間、数ある家庭に訪問している。話を聞いていると「どれだけすごいゴミ屋敷に当たったか」は、訪問を生業にしている人達の共通の武勇伝らしい。
わたしは彼女のその話を聞くのが、とても好きだ。大好物と言ってもいい。
ドライブがてらに教えたら「ハイ、間違いありません!」と言われた。
ワーカホリックな彼女も、実はゴミ屋敷予備軍だと勝手に思っている。とても仕事ができるから。
さて、あなたのお部屋はいかが?
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