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やりたいことがない問題について考える

会社を辞めて、兼ねてからやりたかった道に進みます、と話すと周囲の友人から、「へー!やりたいことがちゃんとあって、それを行動に移すなんてすごい!」とよく言われます。

激励の言葉はとても嬉しいのですが、私にはこの “すごい”という意味が分からなくて、例えるならば「ラーメンが食べたかったから食べた!」に対して “すごい”と言われているような感覚です。私からしたら、ラーメンを食べたいのに、食べないままじっと我慢出来るほうが、ずっと"すごい"と思うんです。(犬だったら「待て」が出来なくて飼い主に怒られるタイプ)

ちなみに「〇〇はやりたいことないの?」と聞くと、「やりたいことないんだよね。今の会社に満足してる訳じゃないけど、別に何がしたいか分からないし、今のままでいいかな」と。しかも、同じように「やりたいことがない、分からない」と言う友人が本当に多くて、「幼い頃はみんな将来の夢があったのになあ」と、なんだか私はとっても寂しい気持ちになりました。

私は良くも悪くも何でも興味を示して何でもやりたい!となってしまう性格なので、今まで「やりたいことがない」という悩みに出くわしたことがありませんでした。(両親は色んなことに興味が『芽生』えて欲しい、という思いを込めて名付けたそうですが、その通りに育ちすぎたみたいです。名前って怖い。笑)

ですが、ここ最近同じような悩みを抱える友人たちにたくさん出会って話を聞いていく中で、この「やりたいことがない問題」は一種の社会問題なんじゃないかと思い始めたんです。

(あくまでもこれは私の周りの話ですが)みんな「いい大学に入るために」と、中高時代は必死に勉強して高いお金払って塾にも通って、今度は「いい就職先に勤められるように」と必死に就活をして名の知れた企業に入って。そうしてやっとの思いで手に入れた仕事なのに「やりたいことがない」ってなんか悲しいなあ、と思います。

この原因って何だろう?と考えました。もちろん、色んな要因があるにせよ、私は圧倒的に「自分のことを『知る』時間」が足りないんだと思います。「みんな」がいい大学を目指すから、「みんな」がいい就職先を目指すから、「みんな」が4年で卒業するから。気づいてみたら全て主体が「みんな」になっていて、肝心の「自分」がどこかへ葬り去られ、ゆっくりと「自分」を知り、見つめ直す機会って無かったんじゃないでしょうか?「自分」のことがよく分かっていないから、「自分」のやりたいことも見えて来ないんじゃないでしょうか?

例えば、ラーメンを見たことがない、食べたことがないインド人に「どの味のラーメンが食べたいですか?」と聞いても、きっと「分からない」と答えると思います。ですが、「醤油はあっさりで、豚骨はこってりで、味噌はその中間」という情報があれば、「(自分は宗教上豚肉食べれないし、あっさり派が好きだから)醤油で」と答えられると思います。つまり、世の中にどんな道(仕事)があって、自分はどんなことが好きで、どんなことに興味を示すのか、知っていれば自ずとやりたいことは見えてくると思うんです。

私は出来るだけ早い段階で、この「世を知る、自分を知る」プロセスを踏むべきだと思います。具体的には、学校教育の現場でもっとキャリア教育を踏み込んでやる。そして、ギャップイヤーが出来ても良いから、就職するまでの間、自分を知り見つめ直す自由な時間を作る。「出来るだけブランクは作るな」なんて言われますが、私はブランクなんて作ってなんぼっしょ、と思うタイプです。だって、これから何十年も続く人生、それで自分の納得のいく道が歩めるなら、1~2年の期間を惜しむ必要なんてないと思うからです。

余談ですが、アメリカの高校ではスクールカウンセラーがキャリア教育に積極的で、生徒一人ひとりの適正にあったキャリアカウンセリングを行うそうです。私は大学3年生のときアメリカに留学しましたが、大学卒業後すぐに就職するのはメジャーではないとの話も聞きました。卒業して大学院に進学したり、インターンをしたり、旅行をしたり、みな思い思いの時間を過ごしてから就職しているそうです。さすが自由の国アメリカだな、という感じですが、日本もそろそろ「右へならえ」文化から脱却するべきじゃないかと思います。

私は、Wantedly㈱のCEOが言っていた、「なんとなく生きるのが嫌い」という言葉が好きです。この一言だけで、彼女がいかに自分のやりたいことを貫き、人生を楽しんでいるかが伝わってきて、かっこいいなあ、と思いました。一度きりの人生、なんとなく生きて終わるなんてもったいない。そのためには、まずは世のこと自分のこと、もう一度知り、見つめ直す時間を作ってもいいんじゃないでしょうか。

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