「人の役に立ちたい」と思ったら、一旦落ち着こう
私は、自信がなくなったとき、人の役に立つことでその穴を埋めようとすることがある。
人が嫌がることをすすんで拾ってみたり、自ら些細なことの犠牲になったりして。「役に立てているし、存在してもよいだろう」と安心したいのだ。
しかし近頃、この一連の行動が安心につながったことはない、という残念な事実に気づき、また自分の浅はかさに呆れている。
冷静になってみれば、そらそうだ。
「あの時のあれのおかげでうまくいっている!」なんて絶対にわからないのだから。
そういえば、世の中ってそんなに単純じゃなかった…。
人の役に立つということは、バタフライ効果のようなもの。
「ブラジルでの蝶の羽ばたきがテキサスに竜巻を引き起こすか」
きっと、そんなレベルのお話だ。
気負わずやったことが思わぬ形で役に立つこともあれば、自分的には超頑張ったけど、大して成果につながらなかったり、感謝されないこともある。
役に立とうと思えば役に立てると信じているなんて、私って結構図々しいな、とちょっとげんなりした。
一方で、人の役に立つ行動をしている人が嘘なのか、というと全くそうではないことも見えてきた。
ただ、彼らは、役に立つということが目的で行動しているのではなくて、本人がやりたいからやってる、やらないと気持ち悪いからやってる、というような場合が多いように思う。
他者貢献の鏡みたいな人も、もとを辿れば、その人自身の幸福のために行動しているような気がする。その人自身の幸福のためには、他者の幸福も必要、と言ったらわかりやすいだろうか。
「誰かのためにやってあげている」と思って行動することと「自分のためにやっている」と受け入れたうえで行動することは、全然違う。
前者の思想で、自分の安心のために他人を巻き込んでいるから、感謝してくれない他人へのもやもやが発生するのだと反省した。
他人は自分を満足させるためにいるわけではないと、きちんと理解する必要があるのだと思う。
自分は、自分の力で安心させるしかないのだ。
高い志なんて、なくてもいい。
ただ、安心感を得るために他人を使うのはやめよう。
私は私の幸せのために行動するのだということ、崇高な人間ではないのだということを受け入れる。そのうえで、他の人とどう共存していくのか考える方がいい。
自分が思う「正しさ」を、自分なりに一生懸命貫いているとき、もしかしたらどこかで誰かの役に立てているのかも、と思うくらいが、多分ちょうどいい。
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