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悩んでいるのではなくて、ただ暇なだけなのでは…?


「なんか私って、めちゃめちゃ暇人じゃないですか…?」

「あ…気づいちゃった?」

いつも通り、上司と業務上の悩みや今後のキャリアについて話をしていたときに、自ら言ってしまった。

人からの見られ方を気にしたり、じぶんにはあれが足りない、これが足りないと考える。いつもじぶんのことばかり考えていて、驚くほど暇人なのではないかと。


「まあでも、そういう時期なんじゃない?」

気をつかってくれたのか、面倒になったのかは分からないが、優しく終わらせてくれた。

でも、もう私の頭からは離れない。

考えれば考えるほど、間違いなく暇人だ…!

誰しも悩みがあるはずなのに、他の人より明らかに悩みに浸って、振り回されているような気がする。他の人との差はなんだろう、と考え、先輩や同僚の姿を思い出してみる。

家族など守るべきものがある人、実現したい目標がある人、部下をたくさん抱える人…。彼らは他人からどう思われるかなんてどうでもよく、というか、そんなこと気にしている暇なく、行動をし続けている。悩みはありながらも、新たな喜びに出会っている。

対して、私はどうだろう。ただひたすらに、じぶんはこれで良いのかと不安でいる。

じぶんで言っておきながら、ぐさっとくる。



だがしかし、こんなあまちゃんのもやもやは、NHKオンデマンド様があっさり解決してくれた。

個人的に、見ただけで賢くなったと錯覚できる番組No.1『100分de名著』
(哲学、文学、宗教など、あらゆる分野の名著を25分×4回で解説してくれる非常にありがたい番組である。)

「私は暇人」という仮説を立証してくれのは、ラッセルの『幸福論』の回だった。

三大幸福論のひとつである。哲学者のラッセルは、不幸の最大の要因を『自己没頭』としているらしい。幸福になるためには、内に篭るのではなく、外へ外へと意識を向けるほかないと。

ラッセルは「自分の子供が病気になったとき、人間が存在する意味など考えるだろうか。」と問う。

考えていたのはまさにこれだ。病気そのものは不幸かもしれないけれど、目の前の課題に向かっている人ほど、どんどんつよくなっていくような気がする。一方で、どちらかというと後者のようなことばかり考えている私は、本気で向き合っていることが何もないとしか考えられない。

また、ラッセルは幸福な人を下記のように定義している。

そのような人は、自分は宇宙の市民だと感じ、
宇宙が差し出すスペクタクルや、
宇宙が与える喜びを存分にエンジョイする。
また、自分のあとにくる子孫と自分は本当に個別の存在だとは感じないので、
死を思って悩むこともない。
このように、生命の流れと深く本能的に結合しているところに、
最も大きな歓喜が見出されるのである。

ラッセル「幸福論」より

宇宙と言われると「へ?」となってしまうが、じぶんだけではなくて、家族や友達、同僚も含めて全体の幸福を考える、と捉えれば、イメージがしやすい。

番組の中では、司会の伊集院光がわかりやすく例えてくれていた。

「結婚しないと不幸だと言われ続けて、結婚していないことに罪悪感があった人がいたとして、その人は結婚しなくても自分は幸せだと気づくことはできるかもしれない。でも、社会が結婚しないのは悪だ、と言い続けていたらその人は幸せになれないかもしれない。この場合、社会を変えるしかないということですね。」
(うろ覚えですが、内容はこんな感じなはず…。)

「じぶんにとっての幸福ってなんだろう」と考えつづけるよりも、社会に対して持っている「もやもや」を解消していくために行動する方が、結果としてじぶんの幸福につながるということだろうか。

少なくとも、私のように無駄かつ壮大な悩みに振り回されることはなくなりそう。


そう考えると、まずやるべきことはシンプルだ。

他人に対しても当事者意識を持つこと、そうして見えてくる課題に対して、今のじぶんのままでできることを考える。



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