見出し画像

写真ではない写真。仕事にするということ。

先日、モデル業の奥様の現場に呼ばれて顔を出した。その時にその主催者のフォトグラファーが忙しくて行けないからと物件撮影のお仕事を仰せつかった。正直奥様抜きで直依頼だったならばその場で断っていた。

案の定、この手のクライアントとのコミュニケーションは取れないといことは慣れたものであったが、何にどう使う写真なのかも撮影場所さえも知らずに当日の撮影時間を迎えていた。住所しかわからず15分前に建物前に着いたが、そこは中華料理屋、約束の時刻を過ぎても部屋番号や入室方法の指示もない。クライアントの電話番号すら知らない状況に帰る気満々で「30分待って連絡なかったら帰ろうと思います」とLINEに文字を認めていた。撮影予定時間を4分過ぎた時に突然「5階にスタッフがいますから」という文字が来た。「入り口がわかりません」「中華屋の中に入りエレベーターで・・・」という基本中の基本をこの場で文字だけでやりとりして上ったが、その現場にいた男女二人のスタッフも鍵の後処理方法だけしか教えてくれず。結果勝手に撮影できるのは経験上安易なことではあるので腹を括って男性の話す鍵の話を理解しようと試みた。「4階の鍵は・・・」ということでもう一部屋あることをそこで知らされることに。

1部屋1時間、2部屋2時間の撮影を終えて再びLINEのみで連絡をして帰宅するも、翌日になってから「本日中にいただけますか?!」の文字@LINE。もちろんそのつもりで帰宅後から仕事を振ってくれたかたの指示されたようにPhotoshopLightroomの作業(3枚の露出違い写真を1枚に合成)をしておいたので送る段取りだけで納品作業を完了。しかし納品しても何のリアクションもなしで終了!?。撮影日から数えて翌々日に仕事を振ってくれた方から「私にも送って下さい」という連絡に応えて送るも、今度は電話にて「カット数が足りない」「歪んでいる」ということで2部屋分のギャラから1部屋分のギャラへするか、追加撮影に行くかを委ねられる羽目に。

Lightroomで3枚の露出が違う写真を1枚に合成するということは指示されていた。しかし歪み補正までしろとは言われてはいなかった。カット数が少ない件はどのようにカット数を増やすのかの質問にたいする答えは写真を見る中で「反対側から・・・有る、有る」で答えはもらえていなかった。今後やりたいかやりたくないかの質問には「(奥様今いないので)即答は避けさせてください(苦)」と答えたにとどめた。

いつの頃からだろうか、フォトグラファーという肩書きは、撮影者ではなく編集者込みになってしまったは。いや、写真を撮る仕事がフォトグラファーだったハズであるから、また別の違う職業になってしまったのはいつからなのだろう。

おじさんらしく時代にはそぐわない昔話で恐縮なのだが、その昔、物件写真の室内撮影といえば、ストロボ、フラッシュ光を巧みに使い、キレイキレイに撮影した。それこそが物件写真の請求書が出せる撮影仕事だった。1部屋で多くても3カットバリエーション。しかしキメカットはその部屋の一番いい場所はそこしかあり得ないという1枚、これぞこの部屋の写真という感じで撮影していた。「歪み」などのないようにシフトレンズを使うか、いろいろと工夫をして撮影した。

今では広く広く、普通にワイドレンズで撮影して後処理の編集作業で行うようだ(撮影前にレンズは何ミリまでワイド使って良いかも聞いていたのだが・・・出来上がりに歪みクレーム・苦)。

だがもうそれは写真ではない。

写真というよりも撮影してきた素材が有るというだけで、あとは編集という名の作画作業になる。カメラなど何でもよく、使うのも撮るのも一瞬、しかしその後に時間をかけてそこまでしてまで行う作業を仕事とすることはもはや撮影という言葉すら個人的には使いたくもない。しかしそんなことを今「写真を仕事にしている」という方々は普通に行なっているのだと言うことだ。それに今回は気付かされた。

それって、本職の鳶とか大工さんではなく、バイトとしてトンカチを持ったり、ドライバーを持つ代わりにカメラを持っているだけの作業員でしかなく、しかもそれだけに終わらず現場で釘を叩く、ネジを回すほかに、家に帰ってまで作業は終わることはない。こんな撮影の場合は撮ってきた写真を元にパソコンで作画して、インターネットを使って納品して無言のまま達成感もなく作業を終えるようだ。そして締めたネジの数が少ないからと追加でまたネジをはめに行かされるか、ギャラを減らされるかの選択肢を迫られる。

そういえば我がマンションは外壁の補修ということで足場を作られ、ネットを貼られて早数週間、ここで作業している作業員の姿はのべ数日しか見ていない(苦)。

また話が脱線しているが、現場でネジを回す作業こそ面白さは感じることが出来るが、いざこれまで自分が全てを捧げてきた「写真を撮影する作業」となると、そこまでしてまで「写真を撮る」ということを無碍に片手間のような扱いにしてまでやりたいとは思わない自分がいる。そして今後としてもこれから残りのわずかな人生をそんなことを繰り返して生きていこうとも、生きているうちの間の収入を得る仕事にしたいとも思わないのである。ある意味別業種というより逆に別のことしたい気持ちの方がデカい。

人生も56年を過ごし、ここ最近は今では作り話のような「感染症」の罠で働いてはいないが、これまで36年以上に渡り好き勝手に写真を撮って、それが少なくはない収入になってきたという自負自慢は少なからずある。しかしそれが引っかかって、足を引っ張っての物件撮影を収入仕事にするということが違うと感じるものではないのも確実に確かでは有る。これ自体はあたらしい世界でもなく、今まで自分がやってきた世界から楽しいことを全て無くした作業という感じでしかない。写真ではないし絵でもない中途半端な作り物で、人間としての感情の湧かない無風な世界。うまく表現できないが、一言でまとめるならばつまらない(仕事ではなく)作業でしかない。仕事やバイト、ボランティアからお手伝いの作業、全てのことに対して楽しみを見出してきた身、ただ仕事や収入を得ることはつまらないものと言っているひとには理解してもらいことなのもわかる。

昔、まだ二十歳そこそこの時代「物撮りでベンツ」という言葉がまわりの一部の若手で流行っていた。安定したクライアントに可愛がられ、ひとりスタジオにひきこもり、撮影する「物」に対峙してただひたすらに撮影し、頑張ってベンツを買うぞ!というものだった。そんな時代も経験してきた中で、化粧品などの小物や、大きなスタジオを借りての車などの撮影物に「綺麗だよ!」「いいねぇ〜!」などと話しかけるという笑い話ではないリアルな現実までもがそこにあった。もちろん写真業界もピラミッド型で存在し、多数の若手から淘汰されて去るもの生き残るもの、ベンツを買えたものとそれぞれにいた。余談として当時最も親しい奴はベンツではなくフェラーリを買いたい!と言っており、私はポルシェだった。今ではそいつは何をしているかわからないが、フェラーリは買えたのだろうか!?名前すら思い出せない。ちなみに私は途中ベンツまでは行ったが、晩年はポルシェではなくフェラーリに鞍替えしている(爆)。

昔のスタジオマン(スタジオ勤務のアシスタント)は、有名な撮影者に気に入られ、個人アシスタントを経てから認められてフォトグラファーとして独り立ちしていった。それがやがて時代が変わりスタジオ勤務からプロのスタジオマンとしてが最終になり、本職がフリーのスタジオマン、アシスタントとして活動していた。やがて時が流れ、今ではアルバイトとしての「スタジオさん」に終わると言う。写真業界は収入源であり、写真を撮ることはないなどと、それと同じように「写真を撮る側」の方もなっているのかもしれない。収入としてのアルバイトとしてカメラの安いやつを買って写真を撮る。あわよくばYouTuberとして写真は下手くそでも生計を立てられるようになるなどそこから波及効果を望んではいるが、あくまでも写真撮影は自分の写真撮影ではなく、一種の収入源なのかもしれない。いやっ、きっともっと冷静に何カットですか?1本のギャラはいくらですか?カットいくらです!とお金お金の仕事にしてしまっているのではないだろうか。今現在、レンブラントライトが何なのかも知らない!?女性というだけでプロに慣れている?!そんなプロの写真家と名乗る奴ほどつまらない写真で写真展が開催されているのはこのためなのかもしれない。

現場として、写真撮影を仕事として、依頼してお金出してくれるクライアントとして、または一般の写真ファンとして観る方の出来が悪くなってしまった写真業界。それに甘えるように撮る方はもっと悪くなってしまっている。加工して元がなくなるくらいのひと、女性が当たり前で有るようになっている。これまでの短くはない自分の歴史を振り返ってみると、写真という単語はフィルムだけに残して新しいジャンルをデジタル写真では作るべきだった気がする。この私たちの世代が終わるとフィルムからデジタルへの全盛期移行世代が居なくなる。

今からでも遅くはない「写真」ではないデジタルの新しい呼称を考えてみては如何だろうか。

よろしければサポートをお願いいたします。 サポートしていただけますことが次へとつながります。夢をひろげて笑顔をひろめていきたいと願っております。