夜汽車 【随想】

 蒸気機関車がほぼ姿を消して、今「汽車」という言葉の使用頻度は少なくなった。だから当然「夜汽車」という言葉も正確ではなくなっている。「夜行電車」では何だかおかしいし、ディーゼル機関車だって今もある。実情に即せば「夜行列車」がそれにあたるのだろう。そもそも望めば飛行機や新幹線を使い列島を短時間で縦横に駆け抜けることができる時代に、夜を徹して旅客列車を走らせる経済的合理性はなくなっているはずだ。にもかかわらず夜汽車という言葉には抗しがたいロマンの甘い匂いがする。
 僕は鉄道マニアではないし、ファンというほどの愛着も持っていない。かといって嫌いというわけではなく、鉄道が好きか嫌いかの二択で答えるとすれば、さほど躊躇することもなく好きを選ぶだろう。乱暴に言えば、それが大方の日本人の反応でもあろうと思う。一時期ブームになったブルートレイン、寝台列車には乗る機会がなかったし、わざわざ乗りたいとも思ったことはなかった。たまたま遅い時間に列車に乗って、それは大抵運賃の安い普通列車なわけだが、昼間と違ってただ暗いだけの窓に写った自分の変わりばえしない顔を見ていても、退屈でうんざりしながら到着地までの駅の数を数えることが多かった。ところが、これから旅に出ようとあれこれ思いを巡らすときには、たまにそんな時間のことを振り返ってしみじみとした感慨に浸ることがある。堅い座面や背もたれから伝わる列車の振動や、息で曇る窓ガラスのほの白さまでが思い起こされる、それも夜汽車という言葉の魔術かもしれない。
 「いつもいつも通る夜汽車」という歌詞から始まる『夜汽車』という唱歌があって、日本人が夜汽車にロマンを感じるのはその影響も大きかろう。まったく違う内容の歌詞を持つドイツの民謡に独自に詞をつけたものだそうだが、詩人の勝承夫さんの歌詞は心の感傷の壺を的確に突いてくる。先述した冒頭には「遙かな響き聞けば遠い町を思い出す」というフレーズが続く。歌詞の綴り手は夜汽車に乗っているのではない。家の、おそらく寝付けない夜の布団の中で、夜汽車の音を聞いてかつての旅を思い出しているのだ。僕の家の南、数百メートルのところを東海道線の線路が走っている。昼間は車や他の雑音に紛れて気にもとめないのだが、静かな夜、風に乗って鉄路を響かせる列車の音が聞こえることがある。旅客列車なのか、貨物列車なのか区別はつかない。が、僕が眠りに就こうとする、今この時間に、目覚めて列車の振動を直接感じている人たちが確かにいる、という感慨が、『夜汽車』の曲と重なって一際強くなるのだ。具体的に思い出す「遠い町」があるわけではないが、学生時代夜通し列車に乗り、明け方に降りた長野県の駅のホームに洗面用の蛇口が並んでいてプラスチックのコップが備え付けてあった覚えがある。蒸気機関車の時代に、煤で汚れた顔や喉を清めさせていた時代の名残だったという。その時は朝の冷涼とした空気の中で、アルプスの山並を見ながら顔を洗った。距離も時間も遠い場所の記憶だ。
 最近、さぼっていた夜の散歩を復活させることにして、三、四十分近所を歩き回っている。体重や内蔵脂肪の増加が看過できないまでになったのだ。これを解消するため、取り立てて経路を決めることもなく、その日の気分であちこちに足を伸ばしてみているが、先日は南へ進んで、普段滅多に歩かない線路沿いの道へ入った。車の擦れ違いがやっとの道幅であるが、線路沿いに新築の一戸建てが立ち並び、忘れた頃に職場帰りの車が割合速い速度で傍らを過ぎていく。曲がって見通しの利きにくい道で、走行音やヘッドライトで車が来ることは早い段階でわかるものの、身を縮めて道ばたに寄り通過を待つまでの時間は何だかいたたまれない。腰ほどの高さに茂った線路際の雑草の傍らで立っているうちに、背後からのライトが車のものではなく近くの駅を目指す列車のものだということに気がついた。体のすぐ傍らを列車が勢いよく通過していく恐怖は小さくないが、車と違って暴走してこちらに突っ込んできたり、目測を誤って体を引っかけられる心配はまずない。その場に立ち止まっていると、たちまち列車が迫り、背後から自分を抜き去っていく。夜の九時少し後だったか、六両ほどの客車が、轟音とともに次々に通り過ぎていった。明るい車内灯に照らされて、東京の山手線と同じく横並びにしつらえられた長いベンチ型の座席に幾人かの乗客が見える。ドア付近に立って降車を待っている男女もいる。スマートフォンを覗き込む顔を一瞬だけ認識すると、その一瞬の光景が次々に入れ替わりながら去って行った。住宅や街灯に濁った薄闇の中を、窓の形にそこだけ切り取られた明るい異界の景色が迫り、入れ替わりつつ遠ざかっていく。車内の何でもない日常の光景がただ過ぎ去るものとして遠くなり、闇に紛れていくにつれ、震えるような孤独が何ともいえない快感として体を抜けていった。夜汽車は「遠さ」という感覚で、決してたどり着けない異世界というものの存在を感傷的に匂わせるようだ。
 僕の部屋に、萩原朔太郎の「帰郷」の複製原稿がある。前橋の文学館を訪れた際にミュージアムショップで買ったものだ。この詩は東京で夢破れ、子どもたちを連れて夜汽車で郷里へ帰る詩人の感慨を詠っている。いわば落魄の詩であるが、夜汽車の座席に座る作者にとっては、東京も住み慣れた故郷前橋も、もはや意識の中の異境である。いや、作者自身が二つの街の間に彷徨う亡者なのかもしれない。「ひとり車窓に目醒むれば/汽笛は闇に吠え叫び/火焔(ほのほ)は平野を明るくせり。/まだ上州の山は見えずや。」と朔太郎の筆跡が綴る。買い物下手な僕にしては、実によいものを手に入れたと思う。

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