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いい子ちゃんぶってるは嘘じゃなくて本当だった。

昔から言われてきた言葉

「いい子ちゃんぶってる」「純粋」

幼い時によく「いい子ちゃんぶってる」と言われていた。
全然そんなつもりなくて拍子抜けした覚えがある。
私の何をみて「いい子ちゃん」ぶってるって言ってるんだろう。
私自身は”いい子ちゃん”のつもりは全くなかった。

ちょっと成長すると言われる言葉が少しだけ変化した。

「美晴ちゃんは純粋よね~」
「ピュアすぎ(笑)」

純粋とかピュアとよく言われるようになった。
これもこれで自分はまったく身に覚えのないことだから焦った。
時々誉め言葉で言ってくれる友達もいたけれど、ほとんどの場合は違った。

”美晴ちゃんは純粋だから私たちとは違う”

そういう意味で使われていた気がする。

何をもって純粋って言ってるんだろう。私の何を知ってるんだろう。

純粋っていう言葉は言い換えると「あなたは普通じゃないよ」っていうメッセージなのかもしれない。
そう思うと改めて他人との違いを意識してしまって嘆きたくなる。

でもほかの人にそう言われるようになってから意識してみたら自分でも納得するところはたくさんあった。

私は思ったことをそのままでしか言わない。飾るのが苦手でできない。誰でもかれでも心を開いてしまう。正義感が強くておせっかいで、なんでも干渉したくなるし、なんでも頑張ってしまう。

多分、私と付き合うひとは疲れるのだと思う。
私が過去に慕っていた友達や好きだった人は「いい子ちゃん」や「純粋」という理由で私から離れていった。

私はほんとうに”いい子ちゃんぶって”いた。

私はいい子ちゃんでも純粋でもない。
そう言われるから自分でもそうなのだと思ってたし、それが自分なのだと思ってきた。

まあ、でもなんだかんだ言って、いい子だと思われることは別に悪いことでもないし、私のいいとこなのかななんて思っていた。

でも違った。

自分の黒い部分を棚に上げて、盲目な「いい子ちゃん」ぶってる人だった。

私はただのいい子ちゃんぶってる人

それに気づいたのはこの前「他人の話を聞くときは最初は肯定するべき」ということについて話し合っていたときだ。

「なんでも肯定するなんて正直怖い。いいね!素晴らしい!って何に対しても言うのって宗教みたい」

と聞いた時、正直驚いた。
肯定することで心理的に安全な場が作られると思っていたし、私は相手を肯定することは何よりも大切だと思っていたから。
宗教だとは考えたこともなかったし、そんなに冷めた風には見ていなかった。

と、ここまで思って「はっ」気づいた。

私、いい子ちゃんぶってる。

と。

思えばいつもそうだった気がする。
自分だって黒い部分があるし病んでた時期も荒れていた時期もある。怒るときだってあるし、泣きわめきたくなる時もある。そういう自分の負の面があるのを知っているにも関わらず、それを棚にあげ、他人の負の側面を見た時に

「わ~この人こんな人なんだ。私はそんなことしない。」

とどこかさげすんで見ていた。

「誰だってそうなのに。自分だってそうなのに。何言ってんだ…」
と自分の幼さに心が痛んだ。

先人の知恵に学ぶ

人の振り見て我が振り直せ

他人を見る時、いいところはもちろん学べばいいけど、そうではないところは鏡だと思って自分を振り返る必要がある。
私は他人を見て「自分はどうか?」と問える人だと思ってきたけど、どうやらまだまだできていなかったみたいだ。

人を批判するのは簡単で自分の悪いところを認めて直すのはこれでもかというくらいしんどい。

でもそのしんどさを何度も重ねてきた人が人間としての厚みがでてくるのだと思った。

きっとこういうのも含めて私はまだまだ「純粋」なんだろうな。


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