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募金や寄付のすすめ。

少なくとも私が幼い頃より、日本では自然災害が増え、毎年いろいろなところで支援が必要な事態になっている。
その度に募金や寄付のお願いが目に留まる。
日本の中だけでなく世界に目を向ければ、何か私にお手伝いできることはないか、とモヤモヤした気持ちになる。
何か物事を動かそうとする時、少なからずお金は必要になってくる。
だから極論、お金で支援することが、自分にできるもっとも最短で直接的で身近な方法だと考える。

どうあがいても、私は現地にすぐ出発できないし勇気もない。ただただ支援を受けるべき人々の心や状況に寄り添い想像し、明日は我が身と自分ごとのように思いを馳せるしかない。

そこで私にできることは募金や寄付だ。
それは高額ならなお良いが、限界がある。
自分の生活費を削ってまで募金しろ、という話ではない。
ほんの少しでもいいと思う。
今は、ポイントで寄付もできる時代だ。
何でもいいから、1円でもいいから募金や寄付をすることで、どれだけの人々が救われるのか、考えたことありますか?

以前勤めていたところの同僚2人と、寄付の話をした時のこと。
2人とも生活には全く困らないある程度裕福な人たちだった。
私は、1円でも寄付することは何もしないことよりずっと良いと思います、と意見した。
しかし2人は
「1円なんて寄付じゃない、恥ずかしいじゃない。寄付するならそれなりにまとまった額がないとね。だからあまり寄付しない。それにちゃんと寄付したお金が使われるかどうか心配だし。」
と、盛り上がっていた。
ショックだった。
恥ずかしいって何?
寄付をすることにまで階級があるってこと?
どうやらこの人達とは、寄付に対する概念が私と違うんだ、と感じた。

今はクラウドファウンディングで応援するという形で寄付もできる時代。投げ銭もある。
このnoteにもサポートという機能があったりする。
こんなに色んな形で支援することができる時代に、1円なんて、という考え方はいかがなものかと。ただのプライドだと思う。

日本国民が1億人いるとして、1人1円出したら、
1億円集まるし。
神社でお賽銭、十分ご縁がありますようにと15円投げ入れる人がのべ1億人いたら、15億円。
神社でお賽銭出すのに、寄付はできないって何なんだろう。

募金や寄付は、もちろん個人の意思だから、寄付しない人を責めるつもりはない。
ただ、身近でできる支援方法の中に、一円でもできる寄付があるのなら、行動に移しても良いのではないかと思う。

昔は「カンパ」という制度(笑)があった。
母に聞かされた話。
学生時代、子供ができてしまった同級生に堕胎費用としてカンパのお願いがあったそうだ。
カンパとは、事態を理解した人やまたは理解できない人でもお金を出し合ってその事態を乗り越えること、と私は考える。要は協力だ。

また最近の話では、娘が学生時代にサークル活動でちょうどコロナ禍で、合宿を企画したができなくなって、ホテルのキャンセル料をサークルで支払わなければならず、支払うことに協力していた。これもカンパだ。

寄付と募金とカンパとクラウドファウンディングとお賽銭は、みなお金を出すこと、それも金額設定は自由だ(カンパは同額のこともあるか)。

違いは、心持ち。
自分のためなら払いたい、からお賽銭は出す。
自分が応援したいから、努力している人や成し遂げたいことがある人や好きな人にお金を出す。
困っている人を助けたいから、自分にできることはないか、とお金を出す。

困っている人を助けたい。
これって「本当に困ってるの?私の方が生活に困ってるわよ」という人もなかにはいるだろう。
それでもそんな人でも、初詣には十五円投げ入れることはできていると思う。
そのうち一円でも、寄付や募金に回してもらえたら、たくさんの人が救われると思う。

私は寄付や募金を強制しているのではない。
気持ちの問題なのだが、これだけテレビや店頭で募金を呼びかけていても、その時だけで意識が薄れてしまうのが残念だ。

募金や寄付を行うことで、少しでも見知らぬ人に寄り添える。それだけで自分の魂が綺麗になった感じがする。
決して上から目線ではない。
自分のできることから支援するのをおすすめする。
お互い様の世の中だ。
いつ支援される側になるか、分からない時代だ。

だから、募金や寄付をおすすめする。
私もまた気持ちを込めて、ポチッと。






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