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ものかきものがたり・5行め 「活計」

上京して、初めての引っ越し。中野から逃亡する、一人ぼっちの引っ越し。

あの夜、喫茶店の常連だったヤクザの忠告を聞き入れた青年は……。
そのまま部屋に戻らず、バックレ生活のままに夜を過ごして、翌日すぐに不動産屋へ。バイトのおかげで、上京したときよりは手元に金はあった、わずかながらマシなアパートを探すことが出来た。
場所は、中野の西のはずれ、杉並の区境あたりにある2階建てのアパート。
そこに契約が済んだ3日後、もとのアパートに戻らない放浪生活のあとに引っ越しをした。

中野のアパートに、明け方の暗いうちに戻り――
たった一人、夜逃げ同然の引っ越し。頼れる相棒は、上京のときから一緒だったキスリングただ一つ。そのカンバスの背嚢の中に、着替え、本、大事なもの、その他の雑貨を詰め込み、背負い。丸めて縛った布団を担ぎ。前の住人が遺したと思わしき物品ごみそのまま放って原状回復としておいた。
そのまま、大荷物とともにとぼとぼ杉並へと歩き。
新しい住居、2階建てアパートの1階角部屋、なにもない六畳一間の部屋に青年は移り住んだ。
そこは――
最初のアパートをファッケストとすれば、ファッカーとファックの合間ぐらいの汚さ、そして快適さだった。ドアの鍵はしっかり締まり、畳も腐っておらず、ノミもわいておらず。洗濯機はなかったが、近くにコインランドリーと、当時、東京に出現したばかりのコイン式シャワーボックスもあった。
生活水準が向上した青年は、そこでしばらく静かに暮らそうと思ったが……。

――ここに暮らして、どうなる。
そんな、青年の東京生活の背後、足跡につきまとう亡霊のような『現実』が、がらんとした6畳間の新居でも……独り、うずくまる青年の背中にのしかかる。
――物書きにはなれなかった。
――アニメ業界どころか、あのアニメ学院にすら通わなくなってしまった。
――物書きに、作家に、業界人になる希望は、展望は、夜の中野駅の裏通りよりも真っ暗な絶望の中で見失った。作家や業界に知り合いもおらず、作家を志す同志の友人すらいないまま……。
――このまま、東京にいてどうなる。
引っ越したはいいが。青年にはその絶望が、焦燥が重く、冷たく、のしかかり続けた。

しかも……引っ越しと新居の契約で、手持ちの金はほとんどなくなっていた。
この金がなくなったら……田舎の三河に帰るか、浮浪者になるしか無い。
……三河には、帰りたくなかった。
……だが、それ以上に――
浮浪者になりたくない、あそこに落ちたくないという恐怖のほうが、青年には強かった。確か、あの当時はまだホームレスという言い方は広まっていなかったと思う。

青年が、駅や繁華街の裏手で見た、浮浪者たち。いまのホームレスより、かなり気合の入った汚さ、浮浪感のある彼らは……当時から、駅近くの公園やガード下などにブルーシートや廃材で小屋を作って住み、電車の中で異臭を振りまいていた。
青年が、日曜日のアニメ学院に通い、その帰りなど――とくに、新宿には浮浪者が多かった。新宿の彼らは、廃棄の食料などをもらえるツテがあったらしく……駅の一角で、廃棄された仕出し弁当らしきものが詰まったトロ箱と酒瓶を、浮浪者たちが囲んでいる光景はよく見た。
中でも……何度か見かけた――青年くらいの若い浮浪者、ひどく肥満して、昔の漫画のようにシャツから太鼓腹がはみ出していた浮浪者が、券売機をテーブルにして廃棄の寿司をがつがつ食らっている光景。それが青年の脳裏にこびりついて、離れなかった。

ああはなりたくない。ああなったらおしまいだ。
そして……何かの拍子で、自分もすぐにああなる。
その暗い穴には、誰かに突き落とされずとも……少し自分が油断し、怠惰し、躊躇しただけですぐに転げ落ちてしまう……と、本能でわかっていた。
東京で、なんの後ろ盾も知り合いもない、金もない若造ならなおさらのことだった。
――夢はついえ、絶望と暗闇の中でさまよっていようとも。
働くしか無かった。東京にしがみつくためには、金が必要だった。

手持ちの現金、財布の中に紙の金が無くなるころに――
青年は日払いのアルバイトを見つけた。
某流通業界大手の、倉庫作業。これならば、あの喫茶店と違い合法。いきなり潰れたり、やばい連中と関わったりすることもない仕事場に見えた。
そこでの作業は、求人にあった内容を鵜呑みにするなら……。
倉庫内で荷物を運ぶ簡単なお仕事です。未経験者歓迎。作業は懇切丁寧に指導します。当日、現地にて採用。日払いあり。週払い、月給制からの社員登用コースも。
青年は、背に腹で……その日払いのアルバイトにいってみることにした。

朝、8時に現場、西武線沿いにあった巨大倉庫、その日雇い専用のプレハブ前に集合している男たちが、そこで即日雇われ――まずは、経験者と、未経験者に分けられた。
未経験者の青年は、他の男たちと一緒にプレハブの中へ。そこには。毎日、毎朝、同じ説明を底辺の人間たちに繰り返していたせいで、目と、声が擦り切れたカセットテープのようになった社員らしき人物がいて……その説明を聞かされた青年たちは、私服のまま、現場での作業に投入された。

日払いの、青年を含め東京の底辺に生きる男たちに与えられた作業は――
巨大な倉庫の中には、小さなビルほどもある棚が所狭しと立ち並んでおり……その間を、制服姿の社員が行き来し、フォークリフト、荷物を満載したハンドパレットトラック・通称ビシャモンが走り回る。
青年たち日雇いは、そこで社員たちに罵倒されながら……。
専門の担当の指示で、伝票に記載された貨物をその倉庫の中から探し出し、別の場所に移動させる。
――それだけ。
トラックに積み込んだり、仕分けなどはした記憶がないし、しているのを見た記憶もない。ただ……フォークリフトが動かしたパレットの山の間から、何かの貨物が発掘されると……それを手作業で。貨物の大きさ、重さに関係なく、人力で指定された場所に運ぶ。ただそれだけの軽作業肉体労働
現代の流通業界の仕事、日雇いアルバイトでおなじみの、ピッキングや仕分けなどと比較すると――青年の記憶の中でも未だに、不毛で、非効率で。何をやっているのか、何をやらされているのか本当にわからない作業。
それを、朝の9時から17時の終業まで、昼休みの30分以外は延々と続ける。そんな仕事場だった。

最初は、こちらも理由がわからず。制服姿の社員に怒鳴られながら、担当の社員の指示で右往左往するだけだったが……数日、その日雇い仕事を続けると。
……探す貨物が、フォークリフトがいくつもパレットを動かす奥にあったり、と思えば通路脇のパネルもない野ざらしの貨物の山の中にあったり。たったひとつ、カバンほどの大きさの貨物を発掘するために、フォークリフト2台、日雇いたちで1時間かけてそれを掘り出して、またパレットと貨物を元の場所に戻したりする……。
社員たちが操縦する、邪魔な日雇いたちを蹴散らすフォークリフト。それに轢かれないように、フォークで刺されないよう、青年たち日雇いは逃げ惑いながら貨物を探す。フォークが持ち上げたパレット、その上の梱包されていない不安定な、何トンもある貨物の下に潜り込んで日雇いは貨物を探す。

――正直、貨物の管理ができていればこんな作業は不要なのでは? と。底辺で働いている青年にもそれがわかる、気づいてしまうほど……不毛な、日雇いの現場だった。
拷問で、穴を掘らせてまた埋めさせる、無為な重労働をさせる。というものがあるが……まさに、それだった。その現場で生き残り、続けるには――
フォークリフトに轢かれない、貨物に潰されない立ち回り、そして……わずかな日払いの日給を手にするためには、作業の不毛から目をそらすか、現場の無意味さにすら気づかないほどの蒙昧さがスキルとして必要になる、そんな現場だった。

そこで、一日働くと……それでも、当時で5000円ほどになった。
それ以前、まだ三河にいた頃の青年が上京のために、金を貯めるために朝の4時から夜の20時まで働いていた牧場の時給は400円。それと比べれば、格段の収入だが……あの喫茶店の月給が懐かしくなる、日払いの日銭だった。
その日給も、引っ越ししたアパートの、翌月の家賃も残っていなかった青年にはありがたかった。そしてそれ以上にありがたかったのは……その現場で支給される、無料の昼食。

その倉庫には、大きな社員食堂があり――社員だけでなく、日払いもそこを使うことが許されていた。12時まで、現場から逃げずにいた日払いには、担当から食券が配られる。これを、食堂の窓口に出すことで……具のないカレーライスか、一杯のうどんに交換してもらえて。
社員たちはテーブルで、日替わり定食や他のメニューを食べる中。日雇いたちは、食堂のベンチや地べたで、カレーライスやうどんを食べる。そんな30分の休憩時間。
……食えるだけでありがたい。
青年が、水分欲しさにいつもうどんをがっつき、汁まで飲み干す……何度、そんな昼食を取ったか。
そんな、ある日――

その日払い仕事にも、ベテランと言うか、常連が……いて。
青年と同期の日払いたちに嫌われている、募集要項ギリギリ、60代の老人が……いつも、現場にいた。その老人は、ベテランぶるくせに仕事ができず、重い貨物は持てず。日雇いたちに嫌味を垂れては、担当や社員にはぺこぺこする、電球バブルのような禿げ頭の老人。
今だと大問題になるだろうが、すぐに仕事をサボって。火気厳禁の倉庫で、貨物の物陰で煙草を吸っては吸い殻を床に散らしている……青年も、口をきく気になれない嫌な相手だった。

ある日の、昼休憩――
青年が、いつものコロッケうどんを食券で交換し、それをすする場所を探しているとき……だった。
その禿げ頭の老人が、青年を見。いつもの嘲る目で、つばを吐くような口調で。
「これだから素人はよお。まあ、お前には教えてやるよ」
そう、青年を嘲笑した老人の手には、薄汚れたタッパーウェアが、あった。
?? となった青年の前で、老人は窓口に食券と、そのタッパーウエアを出して何事か、ゴマをすりながらペコペコすると……老人の手には、一杯の素うどんと、コロッケを入れたタッパーウエアが戻ってきていた。
ますます ??? となった青年に、その禿げ頭は自慢げに、ベテランが素人のアマちゃんに生き残るすべを教える、もったいぶった口調で。
「こうすりゃあな。昼のうどん食って。こいつコロッケが晩酌のアテになるんだ」
…………。
その老人が、機嫌がいいのかべらべらと。
「お前も目端が効くようにならなけりゃあな。いっぱしの男になれねえぞ」
「何なら、俺が監督センセイに口きいてやろうか。社員になれるかも――」
……毎日、同じ。薄汚れた、上下がバラバラの、何処か別の会社の作業着を着た老人。その禿げ頭が語る就職だの、社員だの。そんな言葉を、ぼんやり聞きながら青年は、地べたにおいた丼からうどんをすすり、

(……ここに、長くいては駄目だ――)

それを、何度も。満たされない胃袋の底で、繰り返し、噛み締め、考えていた。

たしかに、この日雇いを続けていれば……。
朝の8時に、倉庫前のプレハブに集まっていれば、仕事と昼飯、5000円にありつける。そうすれば、安アパートではあるが屋根の下で寝起きができ、残飯ではない食事を得られる。
それは……駅で、道端で見かけたどん底よりはマシな暮らしではあるが――
それでも、青年は薄々気づいていた。
自分が歩いている、いまの真っ暗な世界、道かどうかもわからない『ここ』は、だが……。

――ここは。僅かだが、確実に。
なだらかに傾斜している。ここよりもくらい底まで、確実につながっている。
青年には、この日雇いの日々は、そう思えた。

日雇いでよかった。
あの喫茶店のようにバックレなくて済む。明朝、倉庫の前に集まらなければいい。誰にも咎められることはない。
――翌日、青年は久しぶりに昼前まで寝ていた。あの倉庫の前に行かなかった。
青年は、また。
バブル末期の東京の片隅でうごめく、貧しい、無職の男に戻ってしまっていた。


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