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『君たちはどう生きるか』とアオサギをめぐる思考の断片

 『君たちはどう生きるか』を観てからだいぶ経つのでそろそろ感想をまとめておかなくては忘れてしまう気がするが、なかなか感想がまとまらない。

 それにしても世の中、なにもよしあしを急速に決める必要はないのに、公開時から即座につまらんだのわからんだのと表明したがる人が多い。

 感動しろ面白がれとは思わないが、体験が「流れている」感がある。
 
 体験は川だ。
 
 すぐに言語化すれば、流れてゆく。自然の法則だ。そこで流れる川をせき止めて、脳内でああでもないこうでもないと咀嚼する時間が本来人間には必要なように思う。それが川を操る文明というものだ。

 だいたい、観てすぐの感想はあてにはならない。観終わってすぐ「生涯ベスト更新」と思ったものよりも、そのとき「なんかうすらぼけた映画やな」と思った映画があとあと語りかけてくることがあったりする。

 そんなわけで、映画を観てもしばらく何も話さずにおいたが、第一次咀嚼期間が終わったので、そろろそろ話すかなという気分にはなってきている。
 
 と言いつつ、今日はあえてアオサギの話「だけ」したい。

 私が香川県に越したのは十二年前のことだ。引っ越してすぐに驚いたのが、アオサギの存在だ。そこかしこにアオサギ、シロサギがいる。田舎の人には驚きの意味がわからないだろうが、首都圏では限られた場所にしか生息していない。

 しかもアオサギはけっこうなサイズだ。恐らく、日常で日々目撃する範囲でいえば、人間に次ぐサイズ。なのにこの鳥はまるで人と関わりを持たない。人間の生活の風景に常に存在しながら、まったくこちらに関心がない。

 ゴミを漁ったりもしないから迷惑になることもないし、田圃にいてもせいぜいタニシを食べるだけで穀類を荒らすわけでもない。懐くこともなく、人の気配がするとすぐに飛び立つ。人間はサギを襲わないのに。

 それというのも、サギの肉というのは魚臭くて食えたものではないらしい。だからアオサギでもシロサギでも、人間は狩猟の対象にはしない。

 すぐ隣にいて果てしなく遠い存在。ちょうど生の隣にある死のように。

 ところで、アオサギがたまに正面から飛んでくるのに出くわすとドキッとする。体が細く、飛行時は一本の弓矢のように見えることがあるのだ。また、その飛行を見上げる時には美しさも感じる。鳥としての美しさではなく、飛行物体としての美しさだ。

 間抜けなところもある。飛び立つ時、糞をもらす。いつもではないが、けっこうな確率で脱糞しながら飛び立つ。なんとも、そういう意味でもお近づきになりたくないところはある。糞に関していえば、糞害はあるかもしれず、そういう意味では害獣でもあるかもしれない。
 
『君たちはどう生きるか』ではアオサギの飛翔シーンが緻密に、見事に描かれている。また飛ぶ際に脱糞するところも、さりげなくしっかり挿入されている。また主人公がアオサギの羽を弓矢の羽に使う場面などは、アオサギの体自体のイメージから派生した隠喩的な関係をみた気もした。

 そういえば『風立ちぬ』でも魚の骨を「美しい」と呟くシーンがあった。戦闘機と魚の骨、弓矢とアオサギ。生き物の骨格は、生きること、生き抜くことをミニマルに示した表現体である。そして、戦闘機にせよ弓矢にせよ、人間の生み出す武器にも、研ぎ澄まされたミニマルアートめいたところが、ある。

 主人公は死のメタファーとも取れるアオサギの一部を使い、弓矢を作る。そのような形で死を自らの生に取り込んだ時、主人公は少年から青年への階段を一歩上り始める。

 ごく私的な話になるが、この十二年、作家として生きるなかで、何度も朝のアオサギの狩猟の光景に心を動かされてきた。時に虚しさを抱えながらもアオサギをみると、何はともあれ生きている間は生きるか、というシンプルな気持ちにもなったものだ。

 ひるがえって、人の死について考える。ある人の死は、その人の生を凝縮して我々の前に提示してくる。我々は死によってその人の生を突きつけられる。その生は弓矢のように鋭く我々の胸に迫ってくる。

 昨今だと、若い人なら芸能人の死などもある種、このように感じるのではないだろうか。その人の死によって生の形がくっきりする。その時、その生は飛行物体としてのアオサギのように、美しく研ぎ澄まされてもいる。

 アオサギは遠い存在だが、すぐ隣にある。映画を観ながらそんなことを思い出した。この映画は、映画自体について語るというより、そのようにモチーフについて語ったり、オマージュととれる先行作品を語るうちにゆっくり見えてくるものがあるかもしれない。

 ひとまず今日はアオサギをめぐる思考の断片を言語化してみるに留めたい。ではでは。

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