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〈推理〉するのは誰か?

エドガー・アラン・ポオは、自身の小説「モルグ街の殺人」をthe tales of rasiocinationと呼んだ。日本語に訳せば「推理小説」。だが、同時にポオは作者の用意した都合のよい推論が、世間で勝手に高く持ち上げられすぎている点を懸念してもいる。ポオにしてみれば、「推論なんてこれくらい都合よくできちゃうんですよ、〈理路整然としてる〉ってこわいね」くらいの感じだったんじゃないかと思う。

まあポオの思惑はともかく、その後、さまざまな論者がミステリの〈かたち〉を定義せんと筆をとってきた。フリーマン、ニコルスン、ヴァン・ダイン、ノックス……まあ数え上げればきりがないし私もそのすべてに目を通したとは言えない。

ただ、現状のいわゆるミステリ好き界隈をみていると、ふんわりとした〈フェア/アンフェア〉のような感覚のみが残っているように思う。数年前に特殊設定ミステリがウケた時も、要するにある特殊な世界設定のルールが事前に説明があり、その世界で「こそ」起こり得る、読者にも推理可能な〈フェア〉なミステリが好まれた、という印象だ。

SNSの感想なんかを見ていると、自分の頭脳と小説が戦争でもしているかのような勢いの人もいる。〈途中で真相を見破れたからクソだ〉とか〈これは予想の裏をつかれた、やられた〉とか、そうかと思えば〈あんな真相は推理できるわけがない。ふざけるな〉とか。要するに、自分の頭脳と常識が基準なので、自分の頭脳が勝っていれば「とるに足らない」、自分の頭脳を常識の範囲内で上回られると「やられた」、自分の頭脳を常識「外」で上回られると「ふざけんな」、となる。

ただ、昨今は価値観も頭脳も多様化の一途を辿る社会で、はたして〈読者〉を想定しきることができるのだろうか?

「推理小説ってのは万人の頭脳と常識の標準値を算出してルール化して遊ぶゲームだろ!」という人もいよう。でも私はそうは思わない。ヴァン・ダインもノックスも、私にとっては後から推理小説を書きだした人間なので、彼らの作ったルールとかもあんまり気にしたことがない。

むしろ私は、20代からこう考えていた。「なぜこの国はアンチ・ミステリという他国にはない類まれな様式美を打ち立てながらそのことを誇る空気がないのか?」と。仮にポオが現代に生きていて、今のすっかりルール化され、区画整備された現状をみて喜んだだろうか、と思うとそうは思えない。この違和感はどこからくるのか、というと恐らくrasiocinationの主語ではないかと思う。

「果たして推理するのは誰なのか?」

振り返るに、90年代、〈新本格〉ブームでルール性は一度破壊されている。さまざまなコードが多用され、ある意味では〈読者には推理できない意外性〉が多く産出されもした。そして恐らくゼロ年代初頭で(たぶん『葉桜~』のあたりで)破壊され尽くしてしまったのだろう。

そこから「やはり秩序を回復せねば」という意識でも働いたのか、ふたたびゲーム性をもった作品が増えていった。その先にあったのが〈特殊設定ミステリ〉だったと思う。そして現在地。もはや〈新本格〉全盛期の頃のような無茶はなく、飼い慣らされた〈読者視点でフェア〉という檻の中で、いかに意表をつくかの戦いが主流であるように思われる。

しかし、私はやはりどうも昔からフェア/アンフェア論争というのが好きではない。たとえば古くは『アクロイド殺し』がフェアかアンフェアかという激論があった。どうでもいいとは言わない。だが、〈推理〉の主語が誰なのか、それがあらかじめ〈読者〉と限定されたうえでの論争にはあまり興味がもてない。私にとって〈推理小説〉とは、あくまで〈探偵が推理する小説〉のことで、〈フェア/アンフェア〉というのも〈その探偵にとってフェアかアンフェアか〉という観点しかない。

くわえて、現実の多様化がある。性愛の対象の多様化に留まらず、価値観はさまざまな場面でガラパゴスの様相を呈している。ある人にとっての常識は、べつの人にとっての非常識。そういった世界において、果たして〈推理〉の主語を〈読者〉に置くことに意味はあるのだろうか? 果たしてそのようにして想定された〈読者〉は現実の多様性を捉えきれているのだろうか? 

そういったことを考えたとき、現状の〈フェア/アンフェア〉もまた、一つの曲がり角にきているのではないか、と、そんなことを最近よく思ったりする。

そして、そんな私の最新刊が発売された。
『切断島の殺戮理論』(星海社FICTIONS)

文化人類学の学徒たちが“地図にない島”で遭遇する!
異様な世界(クローズド・サークル)、異常な殺戮(ジェノサイド)、異形な真実(アルゴリズム)!

帝旺大学人文学部文化人類学科の最強頭脳集団・桐村研が現地調査に赴いたのは、国家に隠匿された地図にない島ーー鳥喰島。
江戸時代に囚人の流刑地とされたその孤島には、身体を切断する成人儀礼を始めとする奇習を存続させた〈鷲族〉と〈鴉族〉が存在していた。
“欠落を美と見做す”彼らの閉鎖世界で発生する連続殺人……これは無計画の連鎖か、計画された虐殺か?
惨劇を追認する推理の果て、異形の真実が剥き出しにされるーー!

〈新本格ミステリカーニバル〉の一冊として刊行されており、今のところは、多くは賞賛の声で迎えられているように思う。
本作を読んだ後、もしここに書かれたことを思いだしてもらえたら幸いだ。
本書は、私が書いたもののなかで、初めて〈本格ミステリ〉と銘打たれたものだ。それゆえに、ある程度は私の立場もはっきりさせておく必要があってこの筆をとったことを最後に付しておきたい。



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