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ホラー掌篇「鵜凪のいる夏」

「まゆみはもう宿題は終わったん?」
 篭野のばあやはいつもそう尋ねる。まだ夏休みも始まったばかりなのに、しらけるしやめてほしい。
「自由研究は?」
「まだ」
「ほんなら早うせんと」

 ばあやはうるさい。いつも人の顔を見ると宿題は済んだのか、と問う。いっそ嘘をついて済んだことにしようとも思うが、そうすると、今度はたぶん何か用事を頼まれる。掃除だ、炊事だ、納戸のものをとってこいだの……。べつにこき使われるためにここへ帰ってきたわけではない。

 そもそも、帰ってくる、という表現はふさわしくない。自分には関係のない土地だ。ここに生まれたのは母であって自分ではないわけで。

「ちょっと外行って自由研究の、材料を集めてくるね」
「そいならウナギにしたらええわ」
「ウナギ? 食べるやつ? うな丼とかの?」
「ちゃうちゃう……鳥の鵜に、風凪の凪で、鵜凪や」
「なに……それ……」
「鵜凪、あれ? 優菜はあんたに教えとらんのかね」

 優菜というのは母の名だ。優菜はあまり自分の話をしたがらない。少女時代の話になったときは「うちは今でいうモンスターペアレントの家庭だったからね、思い出したくもない」と笑っていた。そのわりに、二年に一度はこうして帰省する。ただし、ある時から父は同行しなくなった。母もばあやも、そのほうが気楽なようではあった。じいじは自分が生まれる前にすでに他界していた。小学校に入ってからは、父の仕事が忙しくなったのもあって、母と二人での帰省が増えた。今年は、小学校最後の夏休み。

「夏いうたら、もうこのへんでは季語みたいなもんやね、線香花火、団扇、かき氷、浴衣、蝉、甲虫、向日葵……そんで鵜凪や」
「ほかの言葉にくらべて最後のだけ聞き覚えがなさすぎる」
 そらそうやこの土地だけの言葉やからねぇ、とけけけけ、とばあやは笑った。それから、屁を放った。屁を放ったことに、たぶんばあやは気づいていなかった。だが、それはくさいというよりもいびつな「異臭」だった。死臭と言い換えてもよかった。そういえば、この人いったい今何歳なんだっけ? あと何年生きるのだっけ? そんなことをぼんやりと考えていた。

 そうこうするうちに、部屋がどんどん異臭に満ちてきた。気のせいか、目の前のばあやがどんどん萎んでいる気がする。母は何時ごろ帰ってくるのだろう? 母は実家に帰ってくると、必ず昔の友人だとかなんだとかと出かけてしまう。帰ってくるのは、きまって夜遅くだ。今日もどうせそうだろう。

「ちょっと外出てくる」
 なかば逃げだすようにして立ち上がった。そうしないと、そのまま異臭に取り囲まれて窒息してしまいそうだった。ばあやは何も返事をしなかった。ただちゃぶ台にそっと肘をついて気怠そうに縁側を見やり、また屁をした。体内の悪いガスを出し切ることに、たぶん集中しているのだろう。虚空を見つめるばあやの目が不気味だった。

 土間でサンダルを履いて、外へ出ると、蝉の硬質な羽音が迫ってきた。ほかの虫とちがって、蝉は平然と顔にぶち当たってくることがある。警戒しながら前かがみで進み、夜のうちに無数に張られた蜘蛛の巣をくぐった。

 それから自由研究について考えた。実際、自由研究のテーマはそろそろ決めておいたほうがいいのは確かだ。ばあやは鵜凪にせよと言ったが、自分が暮らしている土地で「うなぎ」と言ったら、それは「鰻」のことだ。こんな地図にも載っていなさそうな土地にしかないものを研究しても、創作だと思われたら癪だ。

「だいたい何よ、鵜凪って」
 しばらく歩いた先に、工場があって、さらにその先に喫茶の文字がみえる。店といっても、物置小屋よりも小さく、テーブルなんて置けないのではないかと思われた。掘っ立て小屋を黒く塗りつぶしただけのものを、作った本人が喫茶店と名付けたからそうなっているだけのような、そんな建物だ。

 おそるおそる中を覗くと、老人が「ほう」と言った。
 明らかにこちらと目が合ったうえでの反応だった。コーヒーメーカーと食器棚、カウンターがあるだけの狭い空間だった。そして妙に埃っぽい。
「驚いたのう、優菜によう似とる。時が戻ったか思うたわ」
「母のことを、ご存じですか?」
 へっへっへ、知ってるも何も、そう言った老人の口元は、年齢とは不相応に下卑ていて脂っこさを感じた。なけなしの良くない脂が、こちらを見た瞬間に表面に出てきたような、そんな感じだ。

 だが、店内の珈琲の香りは悪くない。ばあやの屁が充満した家にさっきまでいたせいもあるのだろうが、ひどくいい香りに思えた。
「いまだにうちらのために帰ってきてくれるんは、ほんまに感謝やねぇ」
「うちら」という表現が気になった。母は二年に一度、実家に帰る。だがそれは彼女がばあやや地元の友人に会いたいがためなのであって、断じて土地のためなんかではない──はずだ。

「珈琲をください」
「こんまいガキはジュースにしときまい」
「いえ、珈琲で」
 老人はせせら笑うようにして珈琲をカップに淹れた。出された珈琲の表面に埃がいくつか浮いていた。

「鵜凪って知ってますか?」
 単刀直入に尋ねると、老人の表情が固まった。かと思うと、急に愛想笑いを浮かべ、それから泣きそうな顔になって、最後には怒りだした。
「知らん……知らんよ……優菜に聞いたらええやないか!」
 老人はそう言って自分に出したはずの埃の浮いた珈琲を一気飲みした。それから盛大なげっぷをした。なぜかそのげっぷは、ひどくばあやの屁の匂いと似ていた。
 まあ体内にたまったガスだから尻から出そうが口から出そうが、年寄りのそれなんて大体同じなのかもしれないが、自分にとっては苦手な臭いだった。だが、次にその目に異様なものを感じた。見開かれた目から、涙が溢れ出たのだ。

「早く……なんとか……して……くれ……ゆうな……」

 恐ろしくて後ずさりした。目を見開いて涙する老人が怖かったのではない。その涙が、黒々としていたのだ。まるで今しがた飲んだ珈琲の色みたいに。
 逃げるようにして店の外に出た。
 蝉の音が、消えていた。
 サンダルが大地をこする音さえはっきりと聞こえる。
 その音に驚き、次いで、それが自分のサンダルの音だと気づいて驚いた。
 そして、何かが、くる──。

「まーゆみー」

 呼んでいるのはばあやだとわかった。だが、声の感じが妙だ。ばあやの声だけれど、ばあや特有のめりはりというのがまるでない。まるで機械にばあやの音声だけ吹き込んで打ちこんだ文字を棒読みさせているみたいだった。

「まーゆみー、まーゆみー、まーゆみーさーん、まーゆみーくーん」
 呼び方もでたらめだった。呼び方をちょっとずつ変えて、こちらの出方を伺いでもするようだ。これはばあやではない。

 走って林のほうへと逃げた。その林の前には、タイヤのないバスが置いてある。かつては市内を走っていたバスが、タイヤを失ってそこに放置されたのだ。中には苔が生えている。

 運転席横の入口が開いている。この中にひとまず隠れよう。足音を立てぬように移動して、バスに上がり込んだ。

 通路に──母が眠っていた。こちらに足を広げて、自分が生まれてきた産道でも見せつけるみたいにして。

 眠っている母は、暑いせいだろうか、ほとんど何も身につけていなかった。こんな姿を目撃してしまって、どうしたらいいのか。声をかけても気まずいだけだろう。窓の外を見ると、ばあやがよたよたと歩いている姿が見えた。よたよた、というのとも違う。何しろばあやはのけぞって歩いていた。足が勝手に歩くから意識はなくても歩けると言わんばかりの歩き方だ。これはばあやが歩いているのではない。べつの何かだ、とすぐにわかった。

 そのばあやのなりをした何者かが去ってしまってから、バスから降りることにした。このまま、母のことは見なかったことにしておこう。もう少し先へ進めば国道へ出る。そこからちょっと歩けばコンビニがあったはずだ。コンビニのカフェコーナーにいて夜になったら戻ればいい。そうすればきっと何もかも元通りになるのではないか。

 何の確信もなく、ただ漠然とそう思っていた。

 だが、バスから一歩降りようとした時、そのとなりに母の顔があった。おかしい。だってあそこに、つい数秒前裸で……そう思って振り返ると、たしかに母の体はまだ通路に横たわっていた。ただ、そこから長く長く首だけが伸びている。

「うちがこんな大変な目に遭うてるのに、いい気なもんやねぇ」

 母はそう罵ってきた。そんなふうに嫌味を言うのは、母の流儀ではないはずだった。母は自分の想いの半分も口にせず、不平不満はもちろん、こちらを叱るようなことだって言ったことがないのだ。
「逃げる気なん? 次は、あんたの番やのに」
「番て……番て……何の番なの?」
「決まってるやん、鵜凪の番よ」
「むり……むり……知らないもん……そんなの……」
 慌てて駆け出すと、母はいっそう長く首を伸ばした。だが、林のほうへ向かうと、そこで止まった。母の首には何か鎖が絡みついていた。母は今度は泣き落としにかかった。

「お願いやぁ、まゆみぃ……この鎖解いてぇ、これあったらどうもならんのよ、ね、お願い、今度お小遣い上げるけん」

 だけど、恐ろしくて、首を横に振った。こいつは母じゃない。こいつは母なんかでは……。すると、母は泣き落としが無理とわかると、また形相を変えた。

「この裏切り者が! 丸のみにしたんでこらぁ!」

 ひどい声だった。目は血走り、肌は見る間に黒く染まっていった。そこに祖母がやってきた。ばあやは「ゆうなぁ」と母に呼びかけるとにっこりと笑った。
「ひとつたのむで……たんとなぁ」
 母は口を開けた。これ以上ないほど開き、さらに顎の骨がグキッと鳴って外れたみたいだった。母の口が信じられない大きさで開いたかと思うと、ばあやの頭に飛びついた。ばあやの頭を噛んだ、というより、呑もうとしてその大きさにちょっとつかえている感じだった。ばあやはみずから足をけって逆さになり、母が飲み込みやすい態勢になった。母はそのままごりごりと音を立て、ちょっとずつばあやを喉に通し、やがて足の指先が痙攣するのが見えたかと思うと、ついにはそれも母の口の中におさまった。

 そこで、意識を失った。

 気が付くと、蚊帳の中にいて、ばあやに団扇であおがれていた。

「ずいぶんうなされとったねぇ」

 どうやら、ここは家の中だ。
 蚊取り線香の匂い。もうあのへんな死臭はしない。
「ママは?」
「優菜やったら、台所やで。もう少し休んどき」
 うなずいて、目を閉じた。

 しばらくして、布団の横に、母がやってくる気配があった。

「まゆみ、目覚めたん?」
「一瞬だけな。また寝よったわ」
「覚えてるんやろかね」
「大丈夫やろ、まだ幼いけんねぇ。せやけど、悪いことやないやろ、あんたが食えんようなったら、今度はこの子の番や。いろいろ教えていかなぁ」
「……この子にはそれは……」
「無理やで。逃れられん。この子が逃げたら、この町どないなるんや?」

 その会話で、さっきのあれが夢なんかではないことがわかった。
 そういえば、母はいつも言っていた。うちは今でいうモンスターペアレントの家庭だった、と。本当の、怪物で、そして母もその血筋なのだ。
 その晩、ばあやと母が眠っている隙に家を出た。そして、二度と戻るまいと決め、SNSで泊めてくれる人を募集した。ありがたいことに、たくさんの申し出があった。その差し出された手のどれもが、下卑た手に見え、その下卑た具合がここの年寄りたちと何ら変わらないのだとしても、自分はそっちへ進むのだろう、とわかった。

 どのみち地獄ならば、やっぱり自分で選びたいじゃないの。自由研究のテーマを人に決めさせるのが馬鹿げてるのと同じよね。そんなことを考えながら、闇夜をずんずんと進み、国道へ出て、最初のバス停にやってきたバスに乗りこんだ。

「さあどこへ行こうかねぇ、まゆみ」

 苔の生えた、タイヤのないバスの入口から、母が親し気に顔を出していた。闇と信じていたのは、母の濡れた翼だったようだ。

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