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インタビューの振り返り

ついにメールが届きました。先月末に受けた無名人インタビューの原稿チェックのメールです。無名人インタビューはインタビューを受けて、文字起こしと編集をしてもらい、その原稿に参加者が目を通して加筆修正を加えて返却する事でようやく、noteの記事となり世に解き放たれるのです。大量のストックがあるので、公開はだいたいインタビューから1か月後らしいですね。

そんなわけで今原稿を確認してるんですけど、むちゃくちゃ落ち込んでます。自分って本当に話すのが下手くそやなあ、質問に対して結局何が言いたいのかこれじゃ分からんやんか、と。僕は話すより聞く方が好きという自負がずっとあって、それは絶対に嘘ではないんですけど、単純に「下手くそに話す自分」を周りに知られるのが怖くて避けてきた部分も大いにあるんだなと理解しました。

小さい頃から、話している最中に「あれ今なんの話をしてるんやっけ?」と頭がふわふわし出すことが多々あります。突然ですよ。大勢の前で緊張したりして話が飛ぶとかはあるあるかなと思うんですけど、僕の場合は仲の良い友達や親なんかと二人きりで喋っていても急にプツンと糸が切れる時があってですね。そしたら「あれ何が言いたいんやっけ自分?てかなんの質問されたんやっけ今?」と焦ります。だから直前までむちゃくちゃ楽しく話していたのに「え?結局何が言いたいん?」っていう雰囲気にしちゃいます。

面白くない事を言って場がしらけるとかは日常茶飯事ですし全然良いんですけど、単純にそれまであった話の流れにそぐわない事を急に言ってる時があるんですよね。まじで何かの病気なのかなと定期的に怖くなります。ほんで調子悪い時ってもう朝からなんか分かるんですよ。うわあ今日絶対会話下手くそな日やなあって。

まあほんとに病気かどうかは置いといてですね、今回のインタビューはあまり取り繕ったりはせずに、必死にもがきながら話せたんじゃないかなと感じてます。ほんで今から書く内容は、それこそインタビューで話せれば良かったのになあと悔しがってるんですけど、インタビューから数日経ってようやく言語化出来たものなので仕方がありません。


僕はですね、自分で言うのもなんですが人の良いところを見つける才能があります。このおかげで色んな人と話す機会には恵まれてきました。自分に軸となる判断基準が特に無いので「ああその考え方もええなあ」と簡単に思えるわけですよ。で、「これはぜひ自分の人生にも採用しよう!」と思って習慣を変えてみるんですけど、なかなか上手くいかない。だってその人のその価値観は人生をかけて作り上げたものであって、それに感化されただけの他人が一朝一夕で身に付くはずもありません。というか真似は所詮真似でしかありません。ほんで、しばらくすると他の人の考え方にも出会い「うわそれもかっこいい!採用!」となってなりたい像ばかりが増えていく。その成れの果てが今の僕です。

これは自分に「軸」が無いからなんだと最近までは考えてました。だから「あーおれも確固たる軸を探してー」と本気で思っていたし、なにか根本から変わらなければという焦りすらありました。自分の軸さえ見つかれば、人生のありとあらゆる判断がスパッと出せて、一貫性のある今までとは違った人間になれると信じていました。だって僕から見てかっこいいなあと思う人はもれなく何かしらの軸がある気がしてたので。

でもですよ。どれだけ自分と対話してみても、僕の中で軸になりそうな事が見つからないんですよ。もう考えすぎて疲れるくらいには長い時間をかけて考えてきたんですけどね。でも今日の朝、ぱっと考えがまとまりました。


まずね、軸軸軸軸言うてきましたが、軸なんて概念が必要無かったんです。これに囚われすぎていた。多分「これが自分の軸や」なんて意識しながら生きている人の方が少ないです。

以前とある神社へ初詣をしに行った時に「今日のために五円玉(ご縁)持ってきてんな」と何気なく言ったら「何円かより気持ちの方が大事やと思うで」って返されました。ちなみにこの会話の後に「てかそういうのは気にするのに真ん中は歩くんや」って笑われました。この日は行きしの電車内で「神社 参拝 マナー」なんて調べたりして恥をかかないように準備したんですよ。なのに真ん中=神様の通り道という基本中の基本を忘れて闊歩してたと。もう恥ずかしすぎて、ぐうの音も出ませんでした。

まあ何が言いたいかって言うと!形より本質が大事やろってこと!!ほんで付け焼き刃じゃぼろが出るってこと!!!


自己保身のために適当な言葉で共感して作り上げた人間関係もそれなりに居心地は良いですし、その全てが嘘やとは思ってません。現に、こんな生き方をしてきたのに友達でいてくれてる人が残ってくれてます。だから今までを全否定する気は無いんですけど、分かる人には、というか普通にそういう僕の浅はかさってのは周りからは見抜かれてるという事です。分かったうえで付き合ってくれてるわけです。じゃあ僕はこの情けない自分へのもやもやをどうすればいいのか。

今のところですね、「もう少し自分に素直になればいい」というのが僕なりの答えです。


何か選択を迫られた時に毎回本気で考えるというのは本当に疲れますよね。だから世の中には憲法があるしルールがあります。憲法ではこうなので~とか、ルール上は駄目なので~とかの方が基本的には楽じゃないですか。でもそれは社会というばかでかい枠組みにおいて必要だからあるだけで、個人個人に確固たるルールとか不変の軸ってのは必要無いしそもそも無理です。だって社会と違って人間は生き物ですし感情がありますからね。

無生物の憲法ですら時代に合わせて必要があればその都度改定するんですよ。ルールだってたまにイレギュラーに直面して特例が生まれたりします。人間の考えの軸なんてそらぶれるに決まってるじゃないですか。僕はこの観点がずっと抜けてました。かっこいいなあと感じるやつらはみんな強靭な軸があってそれに従ってまっすぐに生きてるんやと思ってたんですが、自分にすごく素直になれてるだけなんやろうなと思い始めました。だからそういう人たちはトゲトゲしています。こいつ尖ってんなあレベルの人は珍しいですが、基本的にどこか癖はあります。

ほんで過去の自分の言動とまるで真反対な自分もいつか生まれる可能性はあるわけです。でもその過去も現在も「周りがそういう考えやから」とか「今までの自分ならこうしたから(要は自分の軸はこれだったから)」みたいな基準ではなく、「今の自分の中ではこれが正しいし正義よな、よしじゃあこれでいこう」と考えて決めた言動だったなら、どっちもかっこいいんじゃないかって事です。生きてたら誰かと出会って感化されて考え方が変わるのは当然ですし、そこで過去の自分が邪魔をしそうならそれは遠慮なく取っ払っちゃえと。

とはいえ人間の根本はそう変わらないんで、結果的には毎回同じ言動をする事が多いでしょう。でも、その毎回の判断基準が「これまでの自分の軸がこうだから」か「今の自分がこう思うから」かでは大違いです。友達を見ていても「昔自分自身が一番嫌っていたような行為を今やってるやん」という事がたまにありますが、それはその都度自分に素直に生きてきた末の変化の証なのかもなあと感じるようになりました。

要するにですね、人から見た時にブレブレな生き方でも別に良いんですよ。それはあくまでも見えやすい外っつらの形でしかなくて、その人の気持ちというか言動の真意は常に目を凝らさないと見えない部分です。



とはいえこれはあくまで理想論です。この世の中綺麗ごとだけでは回りませんし、スクールカーストや社内政治といった言葉があるように立ち回りの上手さが生きやすさの鍵ではあります。学校とか会社みたいな社会において全員が馬鹿正直に生きてたら多分うまく機能しません。

何事も大切なのはバランスですね。本音と建前。僕は鬼の建前人間として他人の目と自分の表面上の生きやすさを気にしすぎたあげく、自分も周りも無いがしろにしてきたので。根本から変わるなんてのは諦めてますが、もうちょっとマシな生き方は今からでもできるはずです。こういうのはnoteに書くより黙ってコツコツ実践した方がかっこいいんですけど、僕は忘れっぽいし、何よりここまでの結論を自分で導けたのが嬉しいので書いちゃうんですよね~。

「八方美人」「たちが悪い」「いいやつぶんなよ」「お前は浅い」などなど、これまで生きてきた中で色んな人たちが色んな形容詞を用いて僕を表してくれましたが、結局言いたい事というか感じている事はみんな同じだったのかなと思います。


まじで長かった。多分この記事は同じ事ばっか書いてる気がしますが、なんかむっちゃスッキリしました。とりあえず無名人インタビューは受けて良かったです。

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