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「LADY」MV公開した米津玄師の見解

2023年度TOUR「空想」のスタートを4月22日に控えた米津玄師が、4月5日に新曲「LADY」のMVを公開した。

「LADY」は日本コカ・コーラ「ジョージア」の新しいCMソングとして書き下ろされた曲である。缶コーヒーと聞いて何を連想するだろうか?

そうですね。時期は定かではないんですけれど、ジョージアのCMの話をいただいて。そのときちょうどコーヒーがマイブームで、缶コーヒーを飲みまくっていたんです。それまではエナジードリンクを飲みながら作業するのが常だったんですけれど、それがコーヒーに置き換わった。エナジードリンクは景気付けというか、飲むことによって「よし、やるぞ」と1つのきっかけを作るようなところがあって。でも、コーヒーはガンと背中を押してくれるというよりは、寄り添ってくれる感じがある。そういうところが非常にいいなということを思っている最中の出来事でした。

「音楽ナタリー」インタビューより

エナジードリンクは、ある種の「気合」を入れてくれるものであるが、数年前過剰摂取による死亡者が出た。
エナジードリンクに含まれるカフェインは、眠気覚ましに飲用する人も多いだろうが注意が必要である。
一方コーヒーもカフェインが含まれるが、身体に良いと言う情報と悪いという情報と両方ある。
今回「寄り添ってくれるコーヒー」と米津は表現した。エナジードリンクが直線的な「後押し」ならば、コーヒーはその味だけではない、香りも楽しむ、どこか丸い曲線的な「優しさ」とでも言おうか。「LADY」もまた、そんな楽曲になっている。

新しいものに出会ったとしても、よくよく考えるとこれは以前経験したことの反復なんじゃないか、今まで見てきたことの何らかの亜種というか、形だけ変えても質は同じものなんじゃないかと思うようになって、どんどん真新しく感じるものがなくなってくる。そういう中で、「缶コーヒーっていいな」と思った。ノスタルジックになった缶コーヒーというものを見つけて、それがほんの少し愛おしくなった。

「音楽ナタリー」インタビューより

米津の中で「ノスタルジック」になった缶コーヒー。同じ思いを持つ人も多いのではないだろうか?
平成を経て令和に入って、この世界のものはある意味では目新しいものも少なくなり、米津の言うような「今まで見てきたことの何らかの亜種」のような気がする。
昭和時代は「経済成長期」でもあり、真新しいものへの興味がつきなかったのだが、平成、令和の子供たちは日本で言うならばだが、物質的には何もかも整った状態の上に生まれてきた。それは平成生まれの米津とて同じだろう。

例えば僕ら二人、煌めく映画のように、出会い直せたらどうしたい?

「LADY」歌詞より


「倦怠感からフケたい」と米津は言ったが、新しい「ワクワク」を探さなければならなくなった、恐らく平成生まれの宿命とでも言おうか?「質は同じで形だけ変えたもの」に、騙されつつもどこかで気づいている。
露骨に反旗を翻さない、それは米津がかつてやっていたボカロの性質に似ている。

「新しいことをやる」というのも、それもまたルーティン化していくんですよね。最近はピエロのように、落語家になってみたり、車に轢かれてみたり、いろんなことをやってきたんですけど、それもまた「新しいことをやる」というルーティンの1つになってしまっているんではないか、と。そういうふうに自分の活動を客観的に見ていると「果たして刺激的とは何だろう?」と、どんどん倦怠感を抱えていくようになっていって。

「音楽ナタリー」インタビューより


「新しいことをやる」というのもまた、一種の「アイデンティティ」となる。そこにこだわることで得る「優越感」は、どこか滑稽だ。
「刺激」は、求めれば求めるほどに「刺激的ではなくなる」という、一種のジレンマを抱えながら、「果たして刺激的とは何だろう」と自らに問う時、米津はどんどんと「倦怠感」を抱えるようになった。

恋愛ソングの体をなしてはいるんですけど、あまり恋愛ソングというつもりで書いていなくて。それこそ、さっき話したような自分の生活の中にある倦怠感ですね。

「音楽ナタリー」インタビューより

生活というものを表現できるとすれば、なんでもいいんですよね。ただ、音楽というフォーマットはほかに比べて主観的なものであるし、人間の声で歌うので、否応にも感情との距離が近い。そういうこともあって、恋愛という体が一番効果的であるという気がしました。

「音楽ナタリー」インタビューより

上の二つの米津の言葉を読むと、どこか矛盾を感じる。
「LADY」は素直に受け取れば「恋愛ソング」である。
恋愛ソングというより「倦怠感」、ただ「音楽」ならばとても「感情」に近いと米津は言う。私の主観だが、一般的な歌のほとんどが「恋愛」をテーマにしているように感じる。それはどうしても感情とは切り離せない「生活」の中のジレンマであり、人間の奥底にある「愛」への希求とでも言おうか?

例えば幼馴染の異性と何十年もよき友人としての関係性を築いてきたとして、そいつと1回セックスしてみたら、きっとまともじゃいられないですよね。経験はないですけど、恥ずかしいだろうし、ものすごく違和感があるだろうなと。ただ、結局そうなったところで、おそらくそんなにその後の生活は変わらないと思うんです。どうなるかはわからないですけれどね。それをきっかけに2人の関係がぐちゃぐちゃになるかもしれないし。でも、さして大きな問題ではない感じがする。刹那的な何かがあって、自分たちの今までのあり方が浮き彫りになって。恥ずかしさとか、いてもたってもいられなさのようなものが、大きく目の前に現れる。そういうのが、なんだかいいなと思って。そういうものに対する憧れとか願望のようなものが出るといいな、という。

「音楽ナタリー」インタビューより

この米津の言葉から彼の「ロマンチシズム」を感じないだろうか?「幼馴染とのセックス」から友人関係が壊れる時、逆に現れる「刹那的な何か」そこから生じてくる恋愛というドラマ。その「ぐちゃぐちゃ」は、米津にとって「憧れ」であり「願望」だと言う。

単調なリズムと綺麗なメロディー。数分の中に込められた物語は、ノスタルジックな中での2度目の出会い。それは過去の回想というより、現代においての「新しさ」なのだ。

「2周目の恋愛」というか。「2周目の恋愛」って、MV監督の山田智和さんに言われたんですけど、いい言葉だなと思うんです。

「音楽ナタリー」インタビューより


近年は、私的な空間がどんどんなくなってきていると思うんです。社会の中でSNSというものの存在がどんどん大きくなっていって。例えば自分みたいな立場であれば、街を歩いていると写真を撮られて、それがSNSに上がって、公的なものになってしまう。私的であるということが非常に難しい状況になってきている。私的であるというのは隔絶されたパーソナルスペースを持つということで、そこでは本来、道徳的な価値観や意味を外と共有しなくていいはずなんです。例えば、自分の頭の中でなら何をしたってかまわないけれど、ひとたびそれを行為に移したり、口にしたりすると、それは公のものになってしまう。極端な話をしましたけど、もっと卑近な形で私的な空間というものをより大きく持ちたい。そういう意識が年々増えてきているような気がするんです。それが「フケたい」という言葉なんじゃないかと考えています。

「音楽ナタリー」インタビューより

「私的な空間がどんどんなくなってきている」「私的であるというのは隔絶されたパーソナルスペースを持つということ」というのは、インターネット時代の副作用のような悩みである。

「隔絶されたパーソナルスペース」というのは、誰にも干渉されずにすむ、言ってみれば「ストレス解消」の場である。
ところがここが侵されると、どこまでもおかしくなっていってしまう。言ってみれば、そんな世の中から「フケたい」のだ。

なんでしょうね。最近、自分のSNSアカウントを運営するのが、もう本当に飽き飽きなんですよね。それはさっき言ったこととつながるかもしれないですけど、公的な目に晒されてしまうわけで。倫理的にどうか、この場においてふさわしいのか、公的な目でそれを判断してしまう。そういうのは非常に窮屈だなと。自分はそもそもインターネットから出てきた人間だし、10年前はそういうコミュニティがめちゃくちゃ楽しくて、公園の砂場みたいな感じで遊んでいたんですけど。まあ、10年も経てばいろいろ変わっていくわけで。そういう“砂場”は自分のインターネットの中にはなくなってしまった。そういう気持ちから出てきましたね。

「音楽ナタリー」インタビューより


米津のアカウントはすでに「私的」なものではなく「公的」なものだ。
けれど最初から「公園の砂場」はあったのだろうか?
現代のSNS上において、それすらも曖昧である。

SNS上でインスタントに呟かれる「その場限りの感情」は、呟けば呟くほど米津のいう「私的な空間」を逆に失っていくことに人は気づけない。
「芸能人」としての米津玄師は、私的な空間ですら公開された「公的なもの」になる。
ただそこに何を投影するかは、彼のファンによる。「公開された私的な空間」は、ある種のファンのための「砂場」である。

人間って、“状態”の連続じゃないですか。

「音楽ナタリー」インタビューより

2023年のライブ「空想」を前にして彼は言う。

まだ全貌は見えていないんですけど、ある種の節目みたいな感じになりそうな気がします。32歳になったということには、個人的にすごく思い入れが深くて。親友が31歳で死んだんで、それより年上になるという意味でも、自分にとって未知の領域という感じがある。そのうえで自分はどう生きていくのか、どんな生活を送っていくのかっていうことには、ある種、自分に課せられた何かがあるような気もしていて。

「音楽ナタリー」インタビューより

空白になった親友の「時」を生きていく。「生きる」ことと「生活すること」とは、同義語であるが、似て非なるものでもある。
人は「生きること」より「生活する」ことにうんざりする。

どんな生活を送っていくのかっていうことには、ある種、自分に課せられた何かがあるような気もしていて。平坦な倦怠感がこの先どこまで続いていくのかわからないですけど、そこからまだ見ぬ新たな視点みたいなものが1つひとつ自分の中に生まれていくといいなって。ぼんやりとしたことなんですけど、今はそういう感じがあります。

「音楽ナタリー」インタビューより


「生活」こそ「倦怠感」である。ただそこには「まだ見ぬ新たな視点」がある。
もう一度意識的に同じものをなぞる時、見過ごしていた何かを見つけられるのかもしれない。それはひたすら頂点を目指していた時より、きっと「優しい」ものであろうと思う。
それは更に上ることでもなく、「今」を維持することでもない。ましてや下がっていくことでもない何かを米津は見つけたのではないだろうか?

いつもの暗い顔 チープな戯言
見過ごすように また優しいんだろう

「LADY」歌詞より


依然としてマンガを描きたいですね。自分が主役じゃないものを作りたい。最近は曲もずっと作っているんですけど、そことはまったく関係ない思案にすごく時間を割いている自分がいて。周囲の些細なことについても、「これはなんでこうなっているんだろう」とか、「これはどういうシステムで組み上がっているんだろう」とよく考えるんです。人間に対しても、こいつはどういう生き方をして、どういう人生があって今があるのかとか、その言葉はどういう回路で生まれてきたのかとか、そういうことを考えるのが楽しい。主観と客観でいうと、ものすごく客観的に生きている感じがあるんですよね。それを再構築してみたい。自分が歌うとどうしても自分が主役であると見られてしまう。その視点に干渉されてしまう。そういうことじゃない何かをやってみたいなと思う。それが今パッと思いつくもので言うと、マンガを描くということ。作者が主役じゃないものを作ることができたら楽しそうだなという感じがします。

「音楽ナタリー」インタビューより

自分が作り、自分が歌う。それはどんなに演出してみても、「自分自身」、つまり米津自身のことのように思われてしまう。
その視点に干渉されると、彼自身のパーソナルスペースはどこか嘘に塗り替えられてしまうのかもしれない。
言ってみればそれは今までの米津のイメージであり、ある意味「求められていたもの」でもある。あえてそれを演じてきた彼はその「位置(主役)」を降りてみたいと言う。

楽曲「LADY」は、どこか今までの米津とは違う違和感を持ったファンもいるのではないか?
彼が自分自身の人生を考える時、それはどこまでもプライベートなものであり、ファンとはあいまみえないものだと感じるかもしれない。

もちろん相手のことを100%わかるということなんて到底ありえないとは思うんですけど、自分の感覚としてはわかりきってしまったと感じることがある。そことのバチバチバトルという感じですね。

「音楽ナタリー」インタビューより

そこで最後に彼からファンへのメッセージを届けたい。

「例えば僕ら二人、煌めく映画のように、出会い直せたらどうしたい?」

「空想」のライブツアーは、4月22日兵庫を皮切りにスタートする。
米津の「新しい姿」に期待したい。





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