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福山和人さんに会いに行った~京都府知事選挙に向けて~

 その昔,村上春樹氏が「選挙で『ネガティブ票』というものがあったらいいのに」というような主旨のことを書いておられて,「まさに!!」と激しく共感したことがあった。出典も分からず記憶も曖昧なので間違っていたら恐縮なのだが,ぜひこの人を応援しますという1票ではなく,この人だけは絶対にやめてくれ,という意思表示ができる「ネガティブ票」・・・長らく選挙があるたびに,「ネガティブ票があったらいいのに。」と思いながら,渋々消去法で自分の1票を投じてきた。そう,「この人にぜひ!」とポジティブな気持ちで応援したいと思える人がいないという現状に,心底ウンザリしていた。ねぇ?大事なことを決めんならんのに,消去法て。希望が持てないったらないでしょ。

 ところが昨年秋の衆議院議員選挙。絶望的な状況で,#枝野立ての声を受け,枝野さんがたった1人立憲民主党を立ち上げた。1人ひとりの声が聞き届けられるんだ!そんなことって現実にちゃんとあるんだ!と心震わせた経験については,記事「私は傷ついていた~Twitterの世界での立憲民主党体験~」に書いたのだけれども,その後投票する時に改めて噛みしめたのはポジティブ票を投じられるという幸せ。「推し」がいるって,なんて嬉しいことなんだろう。そう思った。

 でも政治に長じている方々からみたら,私は単なるミーハーだろうと思う。「東京大作戦FINAL」を動画でみながら,「えだのん,キター!」とか盛り上がってたしね。ムスメといっしょにTwitterで流れてきた「えだのんはカピバラに似ている」画像を眺めて,「きゃーカワイイ!」って黄色い声!?挙げてたしね。でも,とここで強調させてください。私が枝野さんを応援したいと思ったのは,枝野さんが突然現れたヒーローだからではないし,ましてやカピバラ似のかわいいルックスだからでもない。(まぁ,そこ好きだけどね。)私が枝野さん推しなのは,やはり枝野さんが語る理想の社会像が私の願うそれと概ね合致するからだし,それを論理的に(ここキホン!),誠実さをもって(ここ大事!!),市民を信頼して(ここめっちゃ大事!!!)語りかけてくれるからである。まぁ裏を返せば,今までさんざん時の為政者に論理的整合性のない話をされて,馬鹿にされ軽んじられてきたってことなんだけれども。あぁ書いててツライが,そのコントラストが私の枝野さん「推し」度をアップさせているのもまた事実である。

 ただ,「このままでは子どもに豊かな社会を手渡せない」と危機感を持って,にわか「政治に関心を持っている層」になってみたのだが,やはり「にわか」。恥ずかしながらこの年で分からないことがたくさんあるし,もしかしたら情けないことに分かろうともしていないかもしれない。色々とご批判に当たる部分は多々あるかとは思うのだが,でも政治に関して「分かってないと何も言えない」わけではない,と私は思いたい。政治の仕組みであったり個々の政策に関して「知っている度合い」に拘わらず,「福島の経験から,原発は反対だ」「子育て世代として,安心して子育てできる社会を望む!」と主張できたらいいと思うし,そのざっくりとした方向性が同じ候補者(政治家)を(気兼ねなく!)応援できたらいいと思う。もちろんいくつになっても,人は学べる。ちょっとずつ関心を持ちながら学んでいきたいと思っているが,「学んでから→態度表明」ではなくて,「学びつつ,態度表明しつつ,学びつつ」みたいな動的状況に身を投じたらいいんじゃないかなと思っている。

 それにね,もしかしたら怒られちゃうかもしれないけれども,でも声を大にして言っちゃうけど,「なんとなく,この人」という直感の力もすごく大事なんじゃないかと思っている。その「なんとなく」を無理に言葉にすれば「人柄」というものになるのだと思うが,その人の振る舞いと,これから実現していこうとしている政策が無関係であるわけがない。女性に対して,子どもに対して,どのように振る舞っているか。誰と語らおうとしているのか。どんな言葉を選んでいるのか。そういうところから,その人自身が向かおうとしている場所がすけて見えるし,何を大事に思い,これからも大事にしていくか,にじみ出てしまうものだと思う。「なんとなく」を侮るなかれ。

 そうした思いもあり,4月8日に投票日を迎える京都府知事選挙に出馬表明された福山和人さんのお話を聞きに,「くらしとせいじカフェ」主催の会へ足を運んだ。候補者の方に直接お会いしに行くことなんて初めてだったのでちょっぴりドキドキもしたが,「どんな人なのかなー」という軽い気持ち,「見学」しに行くみたいなつもりだったのだが。

 結論から言えば,
 ハートを鷲づかみにされました。

 今回の出馬の経緯,幼少期や認知症のおばあさまを介護されていたご経験を踏まえての政策提言,弱い立場にある人々のための弁護活動,参加者とのフラットで論理的な対話・・・それらを総合して私が感じたのは,「あぁきっとこの福山さんという方は,これからも弱い人たちのために働いてくれるんだろうなぁ。市民を信頼して対話しながら政治を進めてくれそうだなぁ。」ということだった。後日マニフェストも読ませてもらったが,それよりもこの日の福山さんのお話にぐっときた。私たち市民の代表になってもらいたい,応援したいと心から思って,Twitterをフォローした。

 その後Twitterのタイムラインに流れてくるのは,福山さんが京都府のあちこちで市民と語り合う姿だった。公園でちんまりピクニックのようなタウンミーティングをしている様子が流れてきた時には,羨ましすぎて悶絶した。私も賀茂川の土手で,政治についてざっくばらんに語り合う会とかしたいぞ。そして政治というと「エラそうなおじさん集団」だが(←偏見です。いや偏見でもないか。),そうではなくて,私が日常的に見ている暮らしの風景がそこにはあった。

 これは,何かの罠ですか!?

 と思ってしまうくらい,私が望んでやまない「政治がナチュラルに暮らしに溶け込んでいる」風景に心奪われてしまった。いや正確には,そこに「政治」なんてワガモノ顔したものはなかった,ということ。写真から実際の声は聞こえてこないが,でもきっと自分たちの暮らしのことを自分たちの言葉で語り合っているんだろうな,ということがじんわり伝わってくるようだった。

 もう一度お話が聞きたいな,と3月18日三条大橋でのスピーチを聞きに行った。「くらしとせいじカフェ」に関わっておられる方々が演出をお手伝いされていたようで(違ってたらごめんなさい),ガーランドや色とりどりの紙テープをつないだ,かわいくて華やかな場になっていた。男性も女性も,子どもからお年を召した方まで,多様な人が集まっているように感じた。ここにもまた「政治」然としていない風景が広がっていた。

 あぁ。でもこの風景は,私が作っているものなんだ。
 子育て世代の「わたし」がそこにいる,ということで。
 そして「エラそうなおじさん集団」という風景もまた,「わたし」の「不在」という形で私自身が作っていたものだったんだ。

 ちーん。

 いや,がっかりしている暇はない。モノトーンな政治の風景を,多様性に富んだ彩のある風景に変えていけるのは,わたしたち1人ひとり。短い選挙期間に慌ててこの文章をしたためるのも,私なりのコミットメントだ。

 なんてエラそうなこと言いながら,家の玄関に福山さんの巨大ポスターをどーんと貼るのさえ,すんごく勇気がいるの。誰かこのポスター見て,何か聞いてくれないかななんて,めちゃ受け身なの。

 そんな自分もゆるすんだ,と自分に言い聞かせている告示前夜です。

福山和人さん公式ホームページ
http://www.fukuyamakazuhito.jp/

福山和仁さんTwitter
https://twitter.com/kaz_fukuyama

つなぐ京都Twitter
https://twitter.com/tsunagukyoto

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