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MMT界隈の政局談義

まず初めに書いておくと、筆者は高卒のワープアである。

ゆえに、経済のことなど何も解らない。今から書くこともMMT(現代貨幣理論、あるいは現代金融理論)に関する学術的な内容は一切含まれていない。

時間を無駄にしたくない方は回れ右してMMTerの論文でも読んだ方が良いだろう。

ビッグウェーブ?

さて、MMTなる理論の存在に関しては、私も2年ほど前から知っていた。

MMT提唱者達のブログ等を翻訳した記事もいくつか読ませて頂いたが、はっきり言って細かい事は全然わからねえ。

そんな中、「アメリカで今、MMTが論争の的になっている」という記事を契機に、日本でも急激にMMTに関する報道がなされるようになってきた。

『富国と強兵』にてMMTに触れて、何かと賛否両論だった中野剛志を中心に、いわゆる【表現者塾】系の保守主義者達(面倒なので、今後は財務省にならって『京都学派』と呼ぶ)が盛んにMMTを持ち上げている。

西田昌司が国会で提起した事もあり、財政破綻論で右から左まで凝り固まっている新聞でさえ、今ではそこそこ大きな記事でMMTを取り上げている程だ。

「アメリカでMMTが話題!」という記事を見た時には、まさかここまで急激な広がりを見せるとは思いもしなかった。

MMT四天王

ところが、この京都学派が中心となった日本におけるMMTの盛り上がりに異を唱える人々が現れた(というか、元々いた)。

それこそが、Twitter上でMMT四天王とも呼ばれる【りっきー】氏、【にゅん】氏、【KF】氏、【望月夜】氏の四名を筆頭とした勢力だ。

彼らは中野剛志らが取り上げる遥か以前からMMTについて注目しており、MMTを提唱した学者達の記事を翻訳して紹介してきた生粋のMMTerである。

彼らによれば、中野らが主張する「MMT」の理解は完全ではなく、人によってはむしろ「誤ったMMT像を世間に撒き散らす害悪」として批判している。

四天王の中で特に京都学派に批判的なのが、にゅん氏であろう。

JGPとはなんぞや

にゅん氏と中野剛志の主張の違いは私などにはさっぱり解らない。

詳しく知りたい方は普通ににゅん氏のブログを読んでほしい。

ただ、一点だけ。ごく最近まで特に中野への批判として最も取り上げられていたのが、『JGP(Job Guarantee Program)』への無理解だろう。

これは、MMTerが主張する重要な政策案だそうで、中野によると日本語で『最後の雇い手』と訳されている。

ざっくり言うと(というかざっくりしか言えない)、失業者を全て「ある程度の待遇」で公的に雇用しようというものだ。

これにより、このJGP以下の待遇で労働者をこき使っている企業には一切人が入らなくなり、ブラック企業は淘汰される。

更に、あくまでも最低賃金である故に、好況時にはJGPで雇われていた人間はより待遇の良い企業に流れていくから、民間企業の求人も阻害しない。

不況時にはあぶれた労働者を拾い上げてブラック企業から守り、好況時には好待遇となった民間企業へとリリースしていく。

まさに最高の政策と言えよう。

JGPと保守のそぐわなさ

ところが、中野剛志もその他の表現者系の論者も、これほど素晴らしいJGPについてまともに推進しようとしない

『富国と強兵』でJGPについての記載が無かった時には、「中野は不勉強だからJGPについて知らないんだ」といった批判も多く見受けられたが、現在ではようやく中野もJGPについて言及し始めた。

ところが、今なお中野はその言論活動においてJGPをあまり積極的に取り上げようとしないのである。

ここに至っては、中野はJGPのことを知らなかったのではなく、そもそも賛同していないと見た方が自然であろう。

ではなぜ中野剛志らは、JGPを嫌うのか?

原因として考えられるのが、「京都学派は基本的には労働を素晴らしいものとして捉えている」ということだろう。

彼らはブラック企業を批判しながらも、労働者が企業に忠実に尽くしたり、それなりの余裕と見返りをもって残業することを肯定している。

京都学派によると、労働とは社会から必要とされることで人々の自己肯定感を高める為の社会活動なのだ。

だが、JGPとは「経済政策として社会からあぶれた人間を救い上げるシステム」である。

JGPを導入するということは即ち、「彼らは必要とされて雇われたのではない。あぶれたから最後の雇い手が雇っただけだ」と公言することに他ならない。

これでは京都学派の重視する「働く事での自己肯定感」は高まりようもないだろう。

JGPで雇われた国民は確実に、「別にいなくてもいいがお情けで雇われている労働者」という劣等感に苛まれながら働くことになる。

これはもう、地獄と言う他ない。

JGPの代替案

では当然、JGPの代案を持ってこいという話になるわけだが、これに関しては私に分かるはずもない。京都学派に聞いてくれと言いたいところだが、上記の内容はあくまで私の想像でしかないので、向こうも聞かれたところで困るだけだろう。

まあ、問題がJGPの「非人間的な求人」にあるのだとすると、建前として「あなた方は必要なのだ、是非来てくれ!」と言って公的機関で雇えば良いのではないだろうか。

例えばこれは公立学校の事務員を長年務めてきた人間に聞いた話だが、一昔前は公立学校に用務員として、全く役にも立たないような人間が多く雇われていたそうだ。

もちろん、中には一生懸命に用務員としての仕事に励んでいた人間もいたそうだが、それと同じくらい一日中まともに働かない用務員も多かったらしい。

そういう職を多く作ってはどうだろうか?

つまり、「別に必要じゃないけど経済政策的にしょうがないから雇う」と公言してしまうから角が立つのであって、不況時には「本当はいなくても何とかなるけど、いた方がいないよりはマシ」という公務員を本音は公言せずに増やすのである。

これならば、労働者に「必要とされている」という自己肯定感を与えつつ、完全雇用を達成できる。

インフレ・デフレ

もっとも、MMTerは裁量的な政策を嫌うらしい。

上記のやり方が不況時に採用されるとは限らない。

平成の30年間がそうであったように、逆に不況時にこそそういった「無駄な人員」は削られていくかもしれない。

だからこそ、MMTではJGPという制度として、雇用保障を実現しようとしているのだと思われる。

だが、JGPを制度として明言してしまえば、実際に雇われる側の人間のプライドを傷つけるのもまた事実であろう。

MMTは「好況・不況に左右されない雇用制度」としてJGPを主張しているわけだが、京都学派は「不況から早期に脱却する仕組みを整えることで、JGPを制度化しなくても済む雇用環境」を実現しようとしているのではなかろうか。

やたらとデフレ脱却を唱える京都学派をMMTerは「MMTの本来の主張に反する」と度々批判しているが、この食い違いは雇用に対する思想の差異から発生しているものかもしれない。

そもそもJGPってMMTに必須なの?

ってのも正直疑問なんだよね。

例えばMMT四天王とも呼ばれる望月夜氏はJGPのことはあくまでもMMTという理論から導き出された代表的な「政策提案」と語っている。

MMTerがよく主張している中に、「MMTとは現実の正確な分析であり、『〇〇をすべき』という理論ではない」というものがあるが、これらが正しいとすれば、JGPとは単なる一つの案に過ぎないのであって、「JGPを取り上げていない、ないし軽視している」という理由で中野剛志のMMT論を批判するのは極めて不適当だということになる。

その批判こそが最早「分析の理論」であるMMTを「べき論」に曲解していることになるからだ。

実際、望月夜氏もJGPについて(逆説的に)重要ではないと述べている。

後発ながらTwitter上にてよくMMTについて発言しているシェイブテイル氏は、にゅん氏らが重視するMMTを「第一世代」、中野剛志らを「第二世代」として、にゅん氏らの見解と相違する中野のMMT論を擁護しているが、上記のことを踏まえると、これは言い得て妙なのではないかと思えてならない。

JGPとはMMTを基に導き出された「アイディアの一つ」ではあっても、「MMTそのもの」ではないのではないだろうか。

四天王の亀裂?

さて、このにゅん氏と望月夜氏であるが、実はこの2人あまり主張が一致していないというか、実はかなりの隔絶があるのではないかということに最近ようやく気が付いた。

にゅん氏によると、『MMTはもともとNK(ニューケイジアン)のような超絶雑な考えを根本的に認めない』そうだ。

ところが、一方で彼はMMT四天王とも呼ばれる望月夜氏について、MMTにNKの考え方を入れていると述べた。

実際、望月夜氏も自身を『「MMTも理解してる修正NK」くらいの立ち位置』と語っており、また、『MMTと修正NKの悪魔合体を試みてる』とも述べている。


これを文字通り受け取るならば、望月夜氏はにゅん氏にとって、根本的に認められない超絶雑な考え方をMMTに入れようとしている敵ということになるだろう。

てっきり私はいわゆるMMT四天王と呼ばれる四名はかなりの部分で共通した理解があるものだと思っていたので、にゅん氏と望月夜氏にこれ程までに「根本的」な差異があると知ってひどく驚かされた。

思えば、上で書いたように、「JGP無ければMMTに非ず」だったにゅん氏に比べ、望月夜氏はJGPに距離を取り、また、中野剛志の『富国と強兵』にも比較的好意的であった。

もしかすると、MMT四天王と呼ばれる人間の中でも、望月夜氏は中野に近い考え方の持ち主なのかもしれない。

にゅん氏の嫌悪感?

実のところ私としては、にゅん氏がここまで中野剛志ら京都学派に厳しいのは、理論の差異以前に、根底にあるイデオロギーの違いが原因ではないかと睨んでいる。

彼は中野剛志の同志と言える三橋貴明を話題にした時に、『DEM左派の清廉さの魅力、みたいのはやっぱあってさ』と呟いた。

この「DEM」が何なのかググっても出てこないので私にはわからないが、どうやらアレクサンドリア・オカシオ=コルテス議員(AOC)が所属する何らかの組織であるらしい。

つまりにゅん氏は、三橋らの主張がどうこう以前に、彼らの「清廉さの無さ、一種の汚らしさ」に嫌悪感を抱いているようだ。

三橋はもちろん、藤井聡も中野剛志も、自身の主張を全く主張の異なる人間に浸透させる為に、「自分でも本当は考えてもいない言い回し」を口にする。

例えば、第二次安倍政権発足前後には消費税増税を延期させる為、この時点で明らかに自分達は「そもそも消費税を上げる必要などない」ことを理解していながら、「デフレ期には消費税は上げてはならぬ。上げるならデフレ脱却後」という甘言で増税派を説得しようとしていた。

また、同じく第二次安倍政権発足前後にリフレ派が力を持ち出した時には、彼らと「財政出動」で共闘する為に、突然「金融緩和と財政出動の両輪」を言い出した(ただし、中野はこの動きには元々距離を置いていた)。

また、MMTについて『講義』を始めた現在でも、そもそも財政再建など全く不要であることを隠しながら、「財政赤字無くして財政再建なし」というフレーズで主流派経済学に染まった政治家・国民を納得させようと試みている。

これはもう極めて政治的と言うしか無く、言うまでもなく学術的に不誠実な態度である。

京都学派は状況を圧倒的に不利だと認識したうえで、こういった搦め手を選んで支持を広げようとしているのだろうが(藤井聡はこれを『ドミナント・ストーリーとオルタナティブ・ストーリー』と言って正当化していたが)、こうした動きに、にゅん氏が不信感を抱くのも仕方があるまい。

アレクサンドリア・オカシオ=コルテス

それ以前に、にゅん氏が熱烈に支持するAOCと京都学派の思想は真逆と言っていい。

AOCは移民政策を推進しており、また、性的少数派の保護にも積極的なごりごりの左派である。

反移民であり、伝統的価値観を重視し、保守を標榜する京都学派と相容れるはずがない。

そんな彼らが、まるで日本でのMMTの権威のようになりつつある。

しかも、にゅんさんはAOC=MMTとまで断言する程の熱狂的なAOCファンだ。

正直、これに関しては当時、個人崇拝が過ぎてキモいなと思ったが、そもそもMMTの提唱者であるビル・ミッチェル等からして左派なのである。

いくらMMTが左派でも右派でもないと言っても、自分とイデオロギーの近い左派から登場し、しかも、これまでずっと自らが日本における第一人者として紹介してきた経済理論を、突然現れたゴリゴリの保守派が横から掻っ攫っていこうとしているのだ。

これで気分が良いはずがない。

別に、にゅん氏の批判が感情論だと印象操作したいわけではないが、どうも彼と望月夜氏の違いは、この社会左派に対する距離感も影響しているような気はしている。

苦言というわけでもないけれど

なので、にゅん氏が今すべきなのは、日本の社会左派に接近し、京都学派に先駆けてMMTを浸透させることだと思うのだが……。

どうも、にゅん氏のツイートを見る限り、これは難しそうだ。

彼は「MMTについてある程度勉強しつつも、自分より足りない」と見なした相手に対して「教師」のように振舞う悪癖がある。

何かを質問された時に、「もう一歩踏み込んで考えてみようか」「ということは、つまり?」という風に、直接回答は示さずに、上から目線で勉強を促すわけだ。

端から見てるだけでも、相手の神経が逆撫でされているのが伝わってきて、なかなかに辛い……。

いや、このやり方が全面的に悪いとまでは言わないが、インフルエンサーとしての役割を期待するのであれば最悪の振る舞いだろう。

初めはにゅん氏に積極的に訊きに行っていたMMT初心者(なのかも私には分からないが)達が、明らかに彼と距離を置くようになり、京都学派に傾倒してきている。

本来であれば、どんな形にしろ折角MMTが注目されだしているのだから、先駆けとも言える自身の翻訳をもっと積極的に宣伝しつつ、京都学派との間を取り持とうする「格下」を取り込みながら、やんわりと間違いを指摘することで自身の存在感を高め、また、京都学派と手を組んでいる山本太郎などを踏み台にして社会左派の間にMMTを喧伝していくのが最適解だと思うのだけれど、どうもその振る舞いを求めるのは難しそうだ。

というか、そもそもにゅん氏を含めたMMT四天王全員に「MMTを広めたい」という願望が薄いようだ。

あくまでも、学術的に正しいMMTを主張し続けることそのものが彼らの最大の目的であり、それが世の中に広がるかどうかは二の次なのである。

それはそれで彼らが選んだ生き方なのだから、私なんぞが口を出せるようなことではないが、このままでは日本でMMT(あるいはMMTとメディアで呼ばれるもの)を主導するのは中野剛志ら京都学派ということになってしうだろう。


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