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清水晶子氏著『埋没した棘』の読書感想文

東大の清水晶子教授が書いた論考を頑張って読みました。
構成を無視して、逐次的に感想を述べます。(途中から半ギレ。

1,クィアの二

著者はクィア理論の手短かな説明の後、バトラーを軽く讃歌し、以下の説明に繋げる。
(以下、囲み記事は、岩波書店『思想』2020年3月号より、清水晶子氏論考「埋没した棘」より抜粋)

本稿が試みるのは、連帯や共存への志向にいわば棘のように刺さるこれらの問いのクィア・ポリティクスにおける重要性を、とりわけ2018年後半から日本語圏SNSで起こっているフェミニスト間のトランス論争をひとつの具体的な参照例として、再確認することである。

そして

しかし、目に見えて現れる諸差異の政治性の議論に重点を置きがちであった90年代のクィアな政治と理論に対し、本稿が注目するのは、必ずしも現れるとは限らない差異を含むものとしての複数性、いうならば埋没した棘の政治的可能性である。

と結んで、2章に入る。

2,均一な傷つけられやすさ

著者は、2018年、お茶の水女子大がトランス女性の入学を許可した件で、主にTwitter内で論争が始まった事を紹介。その具体的事項を上げた後、下記のように纏めている。

これらの議論を積極的に外国語圏から日本語圏へと拡散したアカウントが複数存在することも知られている。とはいえ、グローバルに拡散するトランスフォビア言説が日本語圏においてはどのようにローカルに表出してきたのか、その形式は確認しておく必要があるだろう。そしてその際に目につくのは、女性の身体的恐怖と性的トラウマにかかわる主張の圧倒的な訴求力である。

『女性の身体的恐怖と性的トラウマにかかわる主張の圧倒的な訴求力である』とは、なんだろう?
我々、生物学的女性は、訴求力を持つにあたり、誰かに何かを遠慮した方が良いのだろうか?

この「女性の訴求力」に対応するように、著者はトランス女性(定義無し)の経験する被差別を述べて行く。

そして

「生得的」女性の身体的・性的恐怖やトラウマの強調が広範な層に対して強い情動的喚起力を持つことは(略)明らかである。

と、生物学的女性の語る被害の訴求力について再び述べ、繰り返しTwitter内での議論を提示した上で、

そこに浮かび上がるのは、特定の性的・身体的な傷つけられやすさにおいて「(編注:生物学的)女性」の均一性を保障し、ひるがえってその傷つきからの保護にこそ「女性」の連帯の拠り所を見出そうとする欲望である。

と、断じる。
弱い個体は連帯して互いを守り合う。悪くない連帯じゃありませんか。生物学的女性は大人しく分断を受け入れて、黙って社会の構造に各個撃破されていろ…とは、まさか仰りませんよね? 清水先生?
あと、お忘れになっていますが、日本のTwitter上でTERFと名指される女性らは、身体違和を伴った戸籍変更者であるトランスセクシャル女性と、トランスジェンダー女性と名乗る女装家を明確に分けて考えるだけの知能と知識を持っており、トランスセクシャル女性を排除しようと考える者は稀です。

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3,傷つけられやすさの動員

著者はバトラーの論を以て「傷つけられやすさ」という概念を語り、その「傷つけられやすさ」の内容を語る行為を、

社会的・政治的にその生存が不均等に大きく脅かされている人々にとって、これは特に重要な戦略である。

と述べている。
そこまで「傷つけられやすさ」を語る行為を「戦略」と断じるなら、清水氏こそ堂々と「戦略」を用いてトランス女性を擁護し戦えばいい。無論、相手は生物学的男性だ。
主にトランス女性を傷つけ、殺害するのは、生物学的男性なのだ。試しに「Transwoman murder」とGoogle検索をしてみればいい。尽く男性が殺人者となっているニュースばかりが上位に並ぶ。清水氏こそ、トランス女性が現実に受けた被害を生物学的男性に向かって説き、生物学的男性に反省を促し、男性社会に対して「多様な生物学的男性」の受け入れを迫るべきだ。それがジェンダーの解体の促進に繋がるのではないだろうか。ジェンダー解体こそ、トランスジェンダーを救う最も確かな道筋であるはずだ。ジェンダー(社会的性的役割)さえ存在しなければ、ジェンダーロールの逸脱に懊悩する事もないのだから。
その「戦略」の道具は豊富にあるにも関わらず、何故、生物学的男性の攻撃性を清水氏は透明化し、生物学的女性にばかり譲歩の要求の矛先を向けているのだろうか? 戦術が間違っている。

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※この先、筆者、半ギレ注意

バトラーはしかし、それが傷つけられやすきをジェンダー化した形で普遍化・本質化する可能能性を危惧する。女性を変わることなく傷つけられやすさによって定義する議論は国家などの父権的権力に女性の保護を要請することになってしまう。

可哀想ぶりっ子して、男に助けを求めないでね…ってことかな?

公共の場における「生得的女性」の安全を主張し、彼女たちが性的暴力(および過去の暴力によるトラウマを喚起するーー例えば「自分が使う公衆トイレの女性スペースをペニスのある女性も使用しているかもしれないと危倶する」ようなーー経験)から守られることを優先するオンライン上のトランス批判派の議論が、一面ではフェミニズムの「伝統」を踏襲しつつ、他方で「生得的女性」の性被害はその「妊娠可能性」のためにより深刻である、といった主張をも「生得的女性」の保護を正当化する理由として掲げるのは、まさにその一例と言える。そこでは、女性の性と生殖に関する権利の侵害より、家父長制的な社会において女性が担うべきとされる再生産機能の濫用が、大きな問題となる。

「強姦による妊娠」への恐怖の吐露が、妊娠機能の濫用なんですか?
つまり、「妊娠しちゃう」とかカラダを言い訳にして被害者ぶりっ子するの無しな…って言いたいんですか?
………なんか、生まれ付きの女に恨みでもあるんですか、清水先生?

諸身体が共にあり共に集うことを困難にするー一時には互いの生存を脅かすーー差異を、しかし、性急に解消するのではなく、むしろ解消不可能なままでまさしくそのような困難や脅威として存続させること。バトラーはそこにこそ共存と連帯との可能性を見出すのである。

え?
生物学的女性は黙って怯えていろと?


4,埋没した棘

著者はバトラーの「ジェンダー・トラブル」を引用しつつ自論を語っていく。
そして、『選び取られたわけではない近接性』を説明し、気分の高揚を感じさせる文体で、本題である『埋没した棘』について述べている。

したがって、以前からトランスジェンダー当事者として発言を続けていたアカウントの次のようなツイートが、日本語圏のSNS上で「シスジェンダー女性の性的・身体的安全を脅かすトランス女性」への不安を裏付ける根拠として取り上げられ、繰り返し参照されることになるーー「あたしとか、チンコまたにはさんで、「ちーっす」とかいって、女風呂はいってんのやけど、意職が低すぎ?」。これが実話であったにせよ、あるいは発言者が後に説明したようにフィクションであるにせよ、ここで語られているのは女湯に入ったことが問題にならなかった/なっていないエピソードであり、その意味でこれは視認/露見を免れて女性として通用した話にほかならない。

まずは「チンコまたにはさんで女風呂にちーっす」は違法…ということを再確認しましょう。男性器があるということは、戸籍上は男性です。
『視認/露見を免れて』とのことですが、本当ですかね?
生物学的女性は筋力に劣るので、危ない男性を見たら声も出さずにそっと逃げる、避けるが基本の動作となっております。

って言うか、あの……「チンコまたにはさんで、「ちーっす」とかいって、女風呂はいってんのやけど」というトランス女性(戸籍男性)の女湯侵入行為は、現在の日本では犯罪なので、それを「選びとられたわけではない近接性」とか、お洒落な言い回しで擁護するのはやめてくれませんか。というか、場合によっては、それは犯罪の教唆になるのでは?

なんで岩波書店の『思想』は、この内容で掲載okだったんだろう?
著者が東大教授だから?

感想:つくづく、女に生まれたのが嫌になるような論考でした。(終)

オマケ

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