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なぜか言語化できない、劇団ゴジゲン……っ

観た演劇を文字にするお仕事をしているのに、何回観てもうまく言語化できないんだよなぁ〜、と思っていた(けど言ってなかった)劇団ゴジゲンを観てきました(言っちゃった!)

今回のタイトルは『ポポリンピック』。終演後、またもや「なんだろうー、なんでうまく言葉にできないんだろうー、うーん」とこまばアゴラ劇場のトイレで首をかしげていて、ふと、その理由がちょっとだけわかってきたような気がしたので、言葉にしてみることにしました。
……と書き出してみると、ものすごい長さになってきた……。ふだんなら観劇の感想はTwitterに流すのですが、それだと長いわ!となりそうだったのでnoteに書きます。

ゴジゲンってなんだ?という方はこちらを見ていただくとして(映像などでもご活躍されているのでそちらでご存知の方もいるかも)↓

 

で、トイレのなかでわたしの頭になにがよぎったかというと「わたしは最初は劇団ゴジゲンの公演を観ているつもりだったけど、実は、楽しそうにわちゃわちゃしているゴジゲンの劇団員たちを観に来ているんじゃないか……と思ってたのよ。でも、もしやそういうことでもなく、わたしが観ていたのは演劇でも、劇団ゴジゲンでもなくて、ただそこにいる人達を眺めていたら、たまたま偶然にもその空間の名前が『ゴジゲン』だったってだけだったんじゃないのか!?」ということでした。説明へたくそか!

どういうことかというと……私が観ているのは、劇団ゴジゲンがおくる約100分の演目や、彼らのパフォーマンスや、劇団のラジオなどもふくむ活動や、劇団としての積み重ねや成長の過程や……そういうものじゃなく、いろんな人達がおんなじ場所で生きているところを「なぁんかいいなぁ」と思って眺め続けて、彼らが「じゃ、明日ねー」と解散するような頃にやっと「あ、いまのってゴジゲンだったんだ」みたいな。説明へたくそか!

それは、まるで、学校の教室の窓からなにげなく外を見ていたら校庭の端の方(真ん中ではない)で楽しそうに鬼ごっこかなんかやってる学ランの男の子達がいて「なんだあの楽しそうな人たちは?」と思わず眺めていたら、別の日の昼休みに今度は屋上で真剣にべーゴマやらケン玉をしてて「なんかめっちゃ楽しそうやーん」と見ていたら、また別の日の放課後に公園で滑り台からガムの飛ばし合いなんかしているので覗いていたら「あれ、あの人達って仲良さそうだけど、お互いにムッとしたりツンツンしたり意地張ったり思いやったりいろんな関係があるのかも」と小さな発見をしたところに、また別の日の早朝に川に落ちそうな子犬を助けようとしてみんなで大騒ぎしててなんだかんだで結局みんな川に落ちてビチョビチョになって文句いいながら笑ってて「なんかええねぇ……へぇ、あの人達、自分達を『ゴジゲン』って言ってるのか」っていう頃にはもう好きになっちゃってるみたいな。

と……わたしからは楽しそう仲良さそうに見えているんだけれど、でもたぶん、わたしが思っているのと実情はきっと違ってて、それぞれの関係もそれぞれの問題や楽しさもいろいろあるだろうし、それぞれ違う世界を持っていて、もしひとりひとりに会ったら全然印象違うんだろう……なんて想像しちゃうところもまた心地よくて。そんな人達が、なんか集まってきて、クスクスしたり、にやにやしたり、ぶすっとしたり、冷ややかだったり、なんだかんだその時間だけは同じ空間にいる。大学の部室棟のどこかひとつに出入り自由の彼らの居場所がありそうな。その部屋の札には『ゴジゲン』ってかかっている、気がする。

彼らがこのままおじさんになってる姿をみたいなぁ、と思う。でも、それぞれ別の道を歩んでいったとしても、「どこでどうしてるのかなぁ」と想像を巡らせた時におもわず頬がゆるんじゃうような……もはや彼らに抱いているこの感情にうまく名前がつけられない。なんだろうこの気持ち。

(けっきょく言語化できてないんかい!)

 

……このまま終わるのもなんなので、作品のことについても触れてみよう……

■ゴジゲン第16回公演■
 『ポポリンピック』
2020年、ここでオリンピック・パラリンピックが行われる。プレイヤーとして生きていて、機会は今回しかないだろう。
だけど彼は出られない。
出る資格すらなかった。
多様性と調和。多様性と調和?
どこにも居場所なんてないならば―――

さあ、彼の物語を始めよう。
選ばれなかったら、作るまでさ。

作・演出:松居大悟
出演:目次立樹 奥村徹也 東迎昂史郎 松居大悟 本折最強さとし 善雄善雄 木村圭介(劇団献身)

そもそも、ゴジゲンでは “実在の時事的な出来事” を題材にするのは珍しいと思う。前回『君が君で君で君を君を君を』はみんなで映画とったり恋したり自転車こぎまくったりして、その前の『くれなずめ』はみんなで集まったり別れたり騒いだり遊んだりして、どちらも、カッコよくてもダサくてもいいからとりあえず走ろうぜ!っていうラストに向けての疾走感が、青春(この言葉でいいのかはわからないけど印象は近いとおもう)ぽさになっていて、客席でそれぞれ勝手に懐かしさとか切なさとか泥臭さとかを感じてた。
でも今回はタイトルからわかるとおりオリンピックの話だし、劇中にも「オリンピック」「パラリンピック」「安倍政権」などの単語が出てくる。

でもパンフレットには「コメディです」と明言されていて。それは、たぶん、すぐそこにあるコメディがやりたいって気持ちがあるはずで。でも時事的なネタを風刺ではなくコメディにするのはすごく難しいことで。
そうして……コメディについて考えたり迷ったり闘ったり汗をかいたその思いそのままが舞台に出ているような感じで。

もともと、1ヶ月くらい前に『ポポリンピック』の構想を聞いた時とは後半がガラリと変わっているので、かなりの難産だったんだろうな。それでも彼らからは「芝居の完成度とか、演技のうまさとか、そういうのもいいけど、でも、ただ真剣に生きて、笑おうやん」って聞こえてくるようで(とはいえ実際、動きのキレとか間の取り方とか空気の変え方とか「うまい!」と思う瞬間は多い)。思いきりクサい台詞はただの演技のクセなのかわざとなのかもわからないように進むし、そんなシーンも突き進む力がある。ギャグだって「いま、すべった?」って認識するのが困難なほど思いきりすべっていることもあって、でもそれもなんか愛おしく思えるのは微妙な空気もまわりが次へとバトンを渡していくから。物語にも大きなひねりや壮大な問題提起があるわけじゃなくて、先を予測できるけど、予測できようができてなかろうが一生懸命な大人たちを前に聞き耳を立ててしまうような感覚。それは、日常でも、真剣なときほど身に起こることで。

「楽しいことやりたいよ」「難しいかもしれないけど一生懸命やろうよ、コメディやろうよ」「うまくいかなくても、悩んでも、笑おうよ」っていう意地と矜持のようなものは、コメディを選んだ人にしかない覚悟な気がする。これは単に私にコメディセンスがないからそう思うだけじゃたぶんない。

作・演出の松居大悟さんをはじめ、みんなの迷いや不安や悩みやふんぎりとかも作品の合間から感じられて、でもそれにむかってむちゃくちゃ全力で臨んでて、あんまりしつこいからクドいんだけどそれがまた泥臭くて、なんか、素直だなぁ、嘘つく気がないなぁ、というかたぶん嘘つくときもその迷いとかダメさとか逃げとかすら見せながら真面目に嘘つくんだろうなぁ、それって居心地いいなぁ、みたいな気持ちになる。
最初の例でいえば、「彼らがおんなじ学校にいてよかったな。教室の中心の目立つグループとかじゃないんだけど、この校舎のふとした曲がり角で彼らがいることでなんか安心するな。それって楽しいな。あ、あたし、この学校好きかも」ってストンと落ちる。そんな感触が、「演劇を観た」という印象でなく、同じ空間ですごせて嬉し楽しこそばゆい心地になる。とくにゴジゲン公演のアフターイベントや、ふだんからゴジゲン関係のラジオを聞いている人達は彼らのナマの雰囲気を感じているので、もっともっとその思いが強くなるはず。

だからかな。ゴジゲンについて話す人って、演劇作品を語るというより、「なんかクラスにあんなやついてさぁ」って困ったように嬉しそうにちょっと照れたみたいに話すようなイメージがあるのよね。

そういう「自分の日常のすぐそばにある人達」という距離感が、他人事じゃない親しみとして、客観的な言葉を遠ざける。それで、「ま、笑って、生きましょうや」という気分になってくる。言語化を難しくさせてるのかもしれないなー。

なんて。結局、まだうまい言葉は見つかりませんでした。
 

 

2020年のカレンダーを手に入れた。
なんだろう、この、アイドルグループ感!!!

 
 
ただの日記になってしまったので『ポポリンピック』のことは別でツイートします……(→しました/追記。以下、リンク先にて)

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