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ポテトの山に旗を立てられるのはママだけなの「システム・クラッシャー」映画感想文


ショッキングピンクの服を着たブロンドの少女が、不穏な眼差しでにらんでくる。
タイトルの文字はパステルピンクで、ぱっと見た目はとってもキュート。
白ヌキされたコピーはたった1行、

〝ただママと一緒にいたいだけ〟

泣ける系なのか?
どうしても気になる。





遅まきながら「シアター・イメージフォーラム」@渋谷にデビューした


強烈かつ洗練されたビジュアルに惹きつけられて、公開日に憧れの「シアター・イメージフォーラム」をはじめて訪れた。
土曜出勤のあと19時過ぎの最終上映回に滑り込むため、大混雑の週末の渋谷に降り立った1人の方向音痴は、日も落ちて景色の確認もままならないなか必死に道玄坂を登ったのだった。

チケットはネットで予約したが、入場では発券した紙のチケットを〝もぎって〟くれる、粋なミニシアターだ。
98席のシアター2を目指して地下へ降りていくやや狭い階段の左右の壁には、上映中の作品の大きなポスターが代わりばんこに延々と貼られている。
規則正しく並んだ真っ赤なシートを埋めているお客は30人ほど。
そうして座席に腰を落ち着けると、次第に映画のことしか考えない映画脳になっていく。




ベニーの願いは叶わない


そもそもタイトルのシステム・クラッシャーとは、非公式な言葉、である。

ケアホームからケアホームへ、里親から里親へ、「システム・クラッシャー」とは、あまりに乱暴で行く先々で問題を起こし、施設を転々とする制御不能で攻撃的な子供のこと。

「システム・クラッシャー」オフィシャルサイトより

9歳のベニーはママと一緒に暮らしたい。
弟と妹は一緒にいられるのに。
大嫌いなあいつもまだ家にいるのに。
なんで私だけ、ダメなの?

怒りにまかせて吠えまくるベニー。
印象的なピンクの色使い。
かわいい代表の色のはずなのに、
いつしか悲しみの色に見えてくる。


ベニーは幼少期に父親から受けた暴力(赤ん坊の時におむつを顔に押し付けられた)がトラウマとなり、ママ以外の誰かに顔を触れられると激しい発作をおこし周りや自分を傷つけてきた。

もともとベニーは何も悪くない。
でも発作がおきると制御不能になり、ママはついにベニーを手放した。
そのことが、発作とは別のところでベニーの怒りと悲しみに火をつける。
施設でも病院でも学校でも、怒って、ケンカして、誰のことも許さないし何も楽しくないし、大嫌い!と唾を吐き、車の遊具を何個もぶん投げて強化ガラスにまでヒビが入る。

もう泣けるどころではない。
ベニーが次に何をしでかすか心配で胃がキリキリしてくる。

ママと一緒に暮らすことがたったひとつのお薬なのに、それが手に入らない。
だからずっと怒り叫び、苦しみが終わらない。

髪を振り乱して暴れるベニーだけれど、たまに面会に来るママに身体を預けると、もう子守唄でまどろむ赤ちゃんのようになる。
ママを見つめる瞳はわずかな穢れもない。
この世でたったひとりの安全地帯であるママが、ただただ大好き。

ただ、ママの愛だけが欲しい透きとおった瞳。




ソーシャルワーカー、バファネの思いは届かない


里親、グループホーム、特別支援学校から追い出されてしまうベニーのために奔走するのは、社会福祉課のソーシャルワーカー、バファネ。
誠意を持って仕事にあたり、長い付き合いになるバファネのことはベニーも信頼している。


多数の受賞歴を誇る演技派、
ガブリエラ=マリア・シュマイデ演じるバファネ。
何十もの施設に断られても諦めずに交渉を続ける。
同僚のスタッフが諦め気味だったり、
ベニーをお荷物扱いにするのが妙にリアル。


たくさん検査して、たくさん薬を飲むベニー。


閉鎖病棟や精神病院への入院を何とか避けようと施設を探すバファネ。
ベニーの母親が一度、希望を見せる。
暴力的な男性(おそらく父親ではなく別の恋人、ベニーをクローゼットに閉じ込める人物)とは別れ仕事を得て、今度こそベニーを引き取ると言うのだ。
バファネは心から喜びベニーに朗報を伝える。

それなのにいざベニーを引き取るスケジュールを相談するという日に、母親は尻込みして席を立つ。
心の準備ができていない。一緒に住んだら弟や妹によくない影響があるかもしれない。
プロが手に負えないのに私にできるはずがある?と。

「母親でしょう」

バファネはベニーの気持ちを思うと、そう言わずにはいられなかったのだろう。
だが世間一般の役割を母親に強制するような意味合いでの台詞ではないと感じた。
きっと、ママであるあなたにしか、ベニーを癒すことはできないと伝えたかったのだ。
「せめて自分で別れを告げなさい!」
バファネの声を背中で受け、母親は泣きながら立ち去る。

この母親を非難するのは簡単だ。
でも少し彼女の立場を想像してみる。

自分より別の誰かがベニーをしあわせにしてくれるのではないかとすがりたくなるのも、理解できはしないだろうか。
仮にどんなにダメなママだったとしてもベニーにとっては一番なのだが、彼女は「よい母親でなければならない」という呪いにかけられている大勢のうちの1人なのかもしれないし、娘を大事に思えば思うほど守れる自信がなくなり怖くなってくるのかもしれない。
そして自分は母親だ、紛れもなく最後の砦となる使命があると思い悩んでますます追い詰められる。

母親にもまた助けが必要なのだが、その不足分のツケは、1人で生きていく力をまだ持たない子どもに降りかかる。

バファネは本当のことをベニーに伝えられない。
まだたった9歳の子どもに、今は難しいけどいつかママは迎えに来ると、嘘を繰り返すほかないことに耐えかねて、声を震わせしゃがみこむ。
そんな彼女のそばに膝をつき、どうしたの、大丈夫よ、とやさしく肩を撫でているのは他ならぬベニーだった。




非暴力トレーナー、ミヒャも身を引く


ある日バファネが通学付き添い人としてミヒャという男性を連れてくる。

非暴力トレーナーのミヒャはベニーを見つめ続けるうち、森の中深くの山小屋に連れて行くことを提案する。
電気も水もない環境で1対1で向き合い、3週間の隔離療法を受けさせるというのだ。



近年ドイツ国内外で注目を集めている
アルブレヒト・シュッフ演じるトレーナーのミヒャ。
助けたい気持ちと、踏み込めないという葛藤。
人は一生のうちにたった1人でも救えたとしたら
上出来なのではないかという気がしてくる。


最初は全力で拒否していたベニーも、忍耐強いミヒャに少しずつ興味を持っていく。
普段相手にしているのは10代の男子だから、ベニーのことはひよっこみたいなもんだとミヒャは言う。
2人で野山をかき分け高台に立ち、ベニーが聞いたことがないという〝こだま〟を聞かせる場面。

ベニーは何て叫ぶのか?
決まっている。

「ママー!ママー!ママーー!
 ママ、ママ、ママ、ママ、ママーー!」

いつもママのことが大好き!と笑ったり歌ったりして見せていたベニーが、かすれた声で奥底の不安を口にする。
「ママはわたしのことキライなのかな?」

こんな風に叫ぶのだろうとは思ったけれど、どんなに声を枯らしても届かない声がせつなくて、誰にもどうすることもできない事実があることに涙した。

平凡な映画ならこの山暮らしのおかげでいい感じに人間関係ができてベニーの将来にも希望が、などと、そんなふうにはなるわけがなかった。


救い出そうと思って近づけば近づくほど責任が増す。
ひと度絡みあった愛情と感情をほどこうとすると、
また傷つけることになってしまう。



心を開いたベニーの体当たりの愛情欲求に押されて、ミヒャはベニーを2度自宅へ入れる。
そこには幼い子どもと身重の妻がいて、何かが起きてしまいそうでまた胃が痛くなってくる。

ミヒャはのちに自戒して、ベニーと距離が取れなかった、自分なら治せるのではないかと奢っていたとバファネに話す。
そして自分は手を引く、と通学付き添い人の位置まできっちりベニーと距離をとる。

安全地帯と思って足を踏み入れた場所が沼地で、ズブズブと身体が沈み顔も埋まって息ができなくなるような落胆。
ベニーにとって、自分を受けとめて欲しかったミヒャからの遠回しでやんわりとした拒絶は、これまでの傷にさらに傷を重ねて刻む辛い出来事だったに違いない。
それでも、ミヒャは精一杯やったのだ。
それがわかるからこそ、双方とも、観ている側もとても辛い。

森で過ごしたふたりに芽生えた絆を、
ごく細いつながりを残してミヒャは切断する。
たとえベニーを泣かせることになっても、
生半可に受けとめることなどできないのだ。




ベニーが駆けてゆく先の世界


この映画が長編のデビュー作であるドイツ出身のノラ・フィングシャイト監督は、ホームレスについてのドキュメンタリー映画を撮影しているなかで、システム・クラッシャーと呼ばれる子どもの存在を知る。
そこから5年をかけて綿密に取材を重ね、自らさまざまな施設に就職までして撮影にのぞんだ。

2019年にドイツで公開されるとベルリン国際映画祭で銀熊賞を受賞し、翌年のドイツ映画賞では最優秀作品賞をはじめ計8部門を受賞した。
全世界での受賞は37部門に及ぶ。
ベニーを演じたヘレナ・ツェンゲルがドイツ映画主演女優賞を歴代最年少で受賞しているのは納得だ。
数年たって、この難しいテーマの作品がようやく日本の映画館のスクリーンで公開されたのは本当にありがたいことだ。
その数年の間にヘレナはトム・ハンクスをはじめとするスターとの共演を果たしており、これからの活躍に期待が高まる。


福祉制度が整っている国でも、そこからこぼれ落ちてしまう子供は少なからずいる。システムの仕組みから外れた破壊者は社会から排除するしかないのか?

「システム・クラッシャー」オフィシャルサイトより


この作品は誰かのことを非難する訳でもなく、福祉制度に物申す訳でもない。
観客に共感を求めることさえしてこない。

ただ、事実を見せる。
フィクションだけれど、作品じゅうに傷だらけになりながら怒り泣き叫び、手に入らない愛を激しく求める子どもの真実が描かれる。
そして観客はそれを衝撃とともに受け取る。

どうすれば守れるのだろう、と多くの大人が考える必要があること、かつて誰かの子どもであった大人にとって、小さき弱き者は守るべき者だということをこの映画は思い出させる。

ベニーが発作をおこしたときに断片的にいくつもの輪郭のぼやけた映像が映る。その合間には不安げな母親の姿が見える。
母親は確かにベニーを大切に思い愛しているのだが、悲しいことにそれが全てを引き受けることとは一致しない。
母親の神話など幻想なのだと言われているようだ。

印象的だったシーンがある。
また一緒に住めると思う、と母親に言われて歓喜するベニー。
弟と妹も一緒に、親子4人で囲んだカフェのテーブルには山盛りのポテトがあって、旗が立っている。
そのときベニーはうれしさの余り、靴のままテーブルに上がって、ポテトを蹴散らしながらよろこびのダンスをしてしまうのだけれど。

バファネの思いも、ミヒャのチャレンジも、病院の医師や施設の先生も、それぞれ本気でベニーに向き合ったものだった。
けれど例えるならそれは小皿に取り分けたポテトに過ぎない。
寄せ集めて合わせたら、量は山盛りポテトより多いかもしれないのだが、それでもやっぱり、どうしても。
大きなお皿で山盛りポテトに旗が立っている。
そんなしあわせな愛を渡せるのは、ベニーにとってはママだけだった。

打ちひしがれた悲しみから、一気にママを求める最大限の愛まで駆けのぼる、ジェットコースターのような感情に観客は翻弄される。そのコースターのエンジン並みの底知れないパワーを、ベニーの魂は抱いている。
だからママと暮らせなくても、いつかベニーは駆け出すだろう。周囲にあるありったけの愛をかき集めて。
そうであってほしいと願わずにはいられない。
ベニーの怒りと悲しみの物語から目を逸らさないこと、この衝撃をずっと覚えておくと約束するから、どうか。

ママを待って、待って、待ち続ける。
いつか、ちがう明日が来てほしい。



               on Mother's day




(写真は全てオフィシャルサイトからお借りしました。記事の中の台詞などは記憶をもとにしているため、映画本編とは異なります。)









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