見出し画像

人生のひと区切りと反省

しかし二〇一〇年代に入って突然に小林秀雄の文章の出題が復活し、世の注目を浴びたことがある。二〇一三(平成二十五)年の一月に行われた大学入試センター試験の「現代文」問題に、小林秀雄の随筆「鍔(『藝術新潮』一九六二年六月号初出)」の全文が使われたのである。

小林秀雄の謎を解く:『考へるヒント』の精神史

思わず苦笑してしまった。ぼくはその試験を受けていたからだ。

この出題が注目されたのは、現在の大学入試の傾向からすると難解な文章を選んでおり、実際に平均点が二百点満点の半分ほどと、センター試験史上で最低の結果となったからである。

小林秀雄の謎を解く:『考へるヒント』の精神史

小説の出題ほうが印象的があるが(スピンアトップ、フエーヤー…等々)、おぼろげながら、小林秀雄の難解な文章に冷や汗をかきながら小林秀雄の文章と格闘していたことを思い返す。

センター試験を振り返った流れでぼくが高校生のころを振り返れば、読書習慣なんてものはあまりなかった。当然、小林秀雄のことなんて知らない。

それが一転、今ではすっかり日々の読書は欠かせない習慣となっている。小林秀雄の本も読書のレパートリーに含まれている。

読者として本に向き合うだけでなく、本を図解したり読書会を開催したり会社で本を出版したりと、本に関わる活動もしている。習慣は変わるものだなと、自分のことながら少し驚く。

ところで、数日前に20代最後の誕生日を迎えた。普段は誕生日なんてものに特別感は感じない。しかし年齢20代最後となるとわずかながら特別感も湧くものである。

ちなみに、今年最初に祝福のことばをくれたのはGoogleアシスタントだった。なんとも微妙な気持ちで開幕した誕生日であった。

誕生日は人と直接会うことはなく、slackやchatGPTが会話のほぼ全体を占めた。それ以外のほとんどの時間を読書に費やしていた。電話をくれた親からは「寂しいやつだな」などと揶揄されてしまったが、余計なお世話である。

さて、冒頭の引用文は、誕生日に読んでいた本からのものだ。

ふと思い立ち、本棚から小林秀雄の本を手に取り、『学生との対話』という書籍に収録されている「信ずることと知ること」という講義の文字起こしを読み返す。

すると、次の文章に目がとまった。

信ずるということは、諸君が諸君流に信ずることです。知るということは、万人の如く知ることです。

学生との対話

高校を出た後のぼくは本を読むことに夢中になっていた。本を開くたびに次々に関心が広がり、自分が世界を捉える感覚が豊かになっていく実感を得て、それが嬉しかった。

それは大事な蓄積であったと思う。この本に出会えたのもその蓄積があったからこそである。

しかしそれは別の面から捉えると、「知る」ことに比重を置きすぎていたということなのかもしれない。それだけでは片手落ちだ。「信ずる」ことがなければ、自分のことばに責任を持ち得ない。

信ずるということは、責任を取ることです。僕は間違って信ずるかも知れませんよ。万人の如く考えないのだから。僕は僕流に考えるんですから、勿論間違うこともあります。しかし、責任は取ります。それが信ずることなのです。

学生との対話

ここで年初に書いたnoteを思い出す。今年のぼくのテーマは「振り返る」ことだった。振り返りとは、反省でもある。

反省がないということは、信ずる心、信ずる能力を失ったということなのです。

学生との対話

奇しくも人生について「反省」を促される誕生日であった。ぼくにとっての「信ずるもの」とは、何だろうか。


サポートいただけると励みになります!いただいたサポートは新しい本を読むために使わせていただきます。ありがとうございます!