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何でもかんでも騒ぐものじゃない

近年のメディアや世間の様子を見て少しだけ思うことがあるので、ここに記しておきます。


近代に入って【大衆】が社会を構成する要素として台頭した結果、その大衆を煽動する道具としてゴシップやらニュースやらメディアが強固になった側面は否めません。少なくとも、民衆の意思決定に外的な要因として影響を与えていることは明らかでしょう。

最初は1度の警告で大きく世論が動きますが、段々と人々も慣れてしまう。アルコールとかタバコと同じで、体がそれらを当たり前のものとしてしまう。そうすると、毎日のように「さも私たちの運命が変わってしまうかのような報道」が多くなっていく訳です。


多くのニュースが私たちの元に流れてくる中で、実際私たち自身の生活に影響を与える出来事は1%もないと(あくまで個人的にですが)思います。しかし、他人事であっても何故かその善悪や是非について考えないといけなかったりするのが今日の私たちな訳です。


さて、メディアから発せられる警告に体が慣れてしまうと、ひとつ問題が起きます。それは「本当の意味での」問題が起きた時に咄嗟の反応ができないことです。関係のないことに反応しすぎたせいで本来反応すべきところを無視してしまう。


こういった出来事が
近頃は随分と多いように思うのです。


例えば、昨今の円安は海外に実際に住んでいる人にはかなりの打撃ですが、むしろ日本国内ではそれで以前より儲けている人がいる訳で、観光業を筆頭に決して悪い話ばかりではないはずです。

議会で居眠りしている議員がいれば「アイツは給料泥棒だ!」と糾弾する人が数多くいますが、そもそもその議員はあなたの自治体の議長じゃないかもしれない。ならば、そこまで過度に反応する必要もないでしょう。


どんな物事に対しても「考える」という姿勢は当然大事なのですが、先ほどの文脈では「考える=批判する」ことのようです。しかし、実際はそうではない。


人間がよく【モノ】を観察するのは批判よりも称賛の時です。批判は他者と比較すれば済む話ですが、賛辞を送る際にはそうはいかないですからね。友人の恋人を見て何と表現しようか必死に頭を働かせた過去を思い返せばそれはよく分かるはずです。(笑)


当然、個々人によって価値観は違うのでその人にとっては大きい問題かもしれないし、実際の当事者が騒いでいるというケースも、まぁ無いわけではないでしょう。しかし、その割合は極めて低いのではないかと私は思うのです。


騒ぐのは確かに楽です。
石を投げるのは難しいことじゃない。


けれど、その石はいつしかあなたの体に跳ね返って、しかも何倍にもなって当たってくるかもしれません。それは国家の存亡や経済の崩壊や大災害かもしれない。その時に正しく叫ぶことの方が重要ですね。今はその時じゃない、そんな風に思うのです。


「何でもかんでも騒ぐものじゃない」


では、また明日
長濱(2024.5.7)

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