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他人の評価とは何なのかについて一緒に考えます【エッセイ】

智春さんから急にメンションが飛んできました。いつもメンションは突然です。別に命にかかわる通知ではないので、慌てる必要はないのですが、いつも「こんにちは」くらいのフランクさで来る。それがメンションである。

どうやら私の記事が引用されたみたいで以下の記事が私の目に入った。

読んでみると一文にとても素朴な疑問があった。

どうして評価する誰かがいて、評価される私がいるんだろう。
その、評価している側の人って、一体何者なんだろう。

なるほど。誰しも同じ様ことを感じて生きてるんだなーと思いました。実は私自身も私が一体何者で、なんで今のような立場にいるのかよく分かっていない状況です。なので智春さんが疑問に思われるのもごもっともです。『あなたのnote読みます』とか企画して、たくさんの人からDMを頂いて、好き勝手にお手紙書いたりしてるけどそもそも私って何者やねん。

これについては考えてもこれぞという答えは出てこないだろう。なぜなら私も一人の人間でしかないからだ。特別なものでも何でもない。

でも人様に対して評価的なことをくだしていて、何となくそれがまかり通ってしまっているのが現状だ。これは何なのだろう?いつのまにやらフクロウの兄貴と呼ばれているし。

そんなわけで一緒にこの疑問に対して考えたくなった。だから今こうしてnoteを私は書いています。一緒に考えるといっても私は私でつらつらとnoteを書くだけですので、智春さんならびに読者の皆さんは私の文章を読むことで私の思考をなぞる形になるかと思います。

それじゃあ書きますね。

まず根本的な話ですが私の評価は絶対ではありません。やってることは人様が書いたnoteを読んで、数ある私のモノサシの内からどれか一つを選んできて、「このモノサシで測ってみるとこう見えるよ」と依頼者に見える形にして提供しているだけです。だから私以外の人が依頼者の文章を読んだとしたら別の評価が出てきます。当たり前です。

そして基本的に否定はしません。

そりゃ、分度器で角度を測らなければならないところを、巻き尺で長さを測ろうとしていれば、それは違うよと言いますが、それ以外は人の勝手ですから、三角関数で角度を求める人が居ればそれはそれで素晴らしいことですねと評価します。

次に私が行っている『あなたのnote読みます』企画は依頼があって初めて発動します。依頼人がゼロであれば自然と終息する他人任せな企画です。それゆえにネット社会でよく見受けられる現象、頼まれてもいないのに他人を評価・誹謗中傷・揶揄するという悲しい事態がそもそも起こらない設計となっています。

そしてこれはコンテストでもなんでもないのです。企画書を読んでいただければ分かると思うのですが、評価が不要なら不要で私がただもくもくと読むだけという選択肢もある。不思議な企画なのです。

だから依頼者が何をもとめてこの企画に参加するのかは蓋を開けてみて初めて見えてきます。

おそらくだけど、依頼者は私がどういうモノサシを持っているのか知りたいんじゃないだろうか。私はそう感じている。依頼者は自身の書いた文章を自身の所持している範囲のモノサシで測っているが、このモノサシで合ってるのかどうなのかいまいち自信が持てないのだと思う。

ただそうじゃない場合ももちろんある。他人のモノサシで測られることで自身の尺度が揺らぐ場合だ。智春さんのnoteにもそのことが出てくる。

「変だな」と思っていても、毎日毎日その物差しで測られると、物差しを持っている人の方が立派で、自分の方が「変なのかも」と思い始めます。
私は、自分自身の、その洗脳を解きたい。

他人のモノサシ、いわゆる他人の評価に毎日触れているといつのまにやら自身を見失ってしまうのだ。これはとても大きな問題である。これについては危ういなと感じたらすぐに距離をとることをおすすめする。対峙すると泥沼になるからだ。

とはいっても、さてさてここからが本題なのだが、「いや待てよ。変なのはやっぱり私か」という可能性を捨てられないのが人間だからそう簡単には逃げられないのだ。
実は逃げるというのも対峙の延長線上だから根本的解決にはならない。
ははは、こりゃ禅だな。

これに対して私が導き出した答えは他人の評価・モノサシと友達になっちゃうという考えだ。1年の内100回くらい自身の考え方・評価をマルっと変えちゃう。その中で身に付いた肌感覚だけを大切にするのだ。

すると世界が全く違って見えてくる。

「目から鱗が落ちる」という言葉があるでしょう。
「the scales fall from one's eyes」これが英文。
遡れば新約聖書に行き着くらしいが、直訳すると「スケール(鱗)が目から落ちる」。そのままだ。

では、スケールを和訳してごらん。
いろんな意味があるが、答えは「水垢汚れ」である。
スケールの意味はもともとは魚の鱗から来ているけれども、均一に並ぶその様子から、モノサシの意味に転じた。さらにそうだな、お風呂場のガラスを見てごらん。均一に魚の鱗のように水垢が付いているのを見たことがあるでしょう。あの汚れのことは今でもウロコという。だから転じて水垢だ。

上記は余談だが知っているのと知っていないのでは、見えてくる世界が全く変わってくる。

「目から鱗が落ちる」と聞いて、魚の鱗を想像している人間と、水垢を想像している人間では、世界が違ってて当然だろう。さらにモノサシの意味を知っていれば、見ている世界の尺度が変わるという意味合いも推し量ることができるようになる。

急に雑談が入ってしまったが、

他人の評価は、あくまで他人が有するモノサシであるが、その他人のモノサシは本来は利用すべき道具なのである。拝借して自分のモノサシにすればいろんな見方ができるようになるのだから。

結論としては他人のモノサシと自分のモノサシ、両方をかっさらってしまえばいい。その度量だけが人を変える。
フクロウの兄貴からのメッセージは以上である。


#あなたのnote読みます #エッセイ


ここのコメントを目にしてくれてるってことは最後まで読んでくれたってことですよね、きっと。 とっても嬉しいし ありがたいことだなー