よくばり近畿の旅①大阪から奈良へ
いつか行ってみたい、あの場所。
もう一度行ってみたい、あの場所。
旅の動機は人によってさまざまだと思いますが、特別な目的は無くても、どこかに行くこと自体がワクワクで、また自分の成長を期待させてくれます。
一説には「人間は、本能的に環境を探求する欲求があり、体が移動すること自体がポジティブな感情の増加を生む」とする研究報告もあるそうですね。
ぼくの場合は旅先でその土地の持つ歴史に触れたい、という気持ちもありますが、単に「好き」ってだけではなくて、そうか、旅好きなのは本能だったのか。
そんなぼくが、はじめて訪れて以来すっかり魅了されてしまって「すぐにでも、また行きたいなー。」と思ってた土地があります。
そう、歴史と伝統の古都"奈良"です。
この前は2月で冬旅でしたが、季節も変わり暖かくなったことでまた違った表情が見られるかもしれない。もちろん、この前は行けなかったところにも出向きたい。
本能の赴くままに、もう一度奈良へ!
テンションはぐっと上がりますが、いちど冷静さを取り戻し、まずは交通手段を決めるところから取り掛かります。
鉄道利用がいちばん楽ですが、奈良って新幹線が通ってないんですね。
京都駅か新大阪駅から、在来線利用で奈良を目指すことになります。
京都駅から近鉄特急に乗る、のがたぶん最速なんですが、ここで思い出されるのが前回「法隆寺」を訪れた時に乗ったJR"大和路線"です。
奈良駅から法隆寺駅をとおって、大阪・難波まで続いています。
そこで今回はその逆向きに、大阪方面から法隆寺を目指すことにしまして、さらに欲張って帰りは京都も観光してから東京へ戻ることに。
大阪→奈良→京都と盛りだくさんの「春の近畿地方・欲張り旅」のはじまりです!
スタートは大阪から。新大阪駅で新幹線を降りて、まずは地下鉄御堂筋線へ。
「なんば」駅で乗り換えますが、まっすぐ法隆寺を目指すその前に、大阪でも寄っておきたいところがあるんです。
南海電車に乗って、約10分。
「住吉大社」駅で下車、すこし歩くと目の前に現れるのが、駅名と同じ名前の"住吉大社"です。
摂津国一宮の住吉大社。古くは住吉を"すみのえ"とも読み、"住江"と書いたそうです。
大阪湾が近く、この地は海運の要衝だったんですね。遣唐使船もここから進発していたそうです。船旅の無事を祈るための神社で、祭神の"住吉三神"は海の神様でもあります。
この住吉大社の本殿の様式は「住吉造」という名前が付いています。
屋根の上で交差する千木が大きくて目立ちますね。
また並びが特徴的で、第一本宮〜第四本宮まで計四棟が、上空から見るとL字のような配置になっていて、まるで遣唐使船団が大海原を走るよう、とも言われるようです。
現存の本殿は1810年造営のもので、四棟すべてが国宝に指定されています。
神社建築の様式で「○○造」という表記はよく目にするのですが、これは"本殿"の様式のことなんですね。
はじめ僕は勘違いしてしまって、本殿より目立つ"拝殿"や"幣殿"と取り違え、説明に混乱することもありました。
"本殿"は大切な"御神体"が安置されている建物なので、目立たないように、守られるように、立地しているわけです。
「住吉造」も正面の目立つ"幣殿"ではなく、その奥に接続している朱塗りの玉垣に守られた建物が国宝の"本殿"です。
さて、住吉大社を出まして、「住吉鳥居前」駅から阪堺電車に乗ります。風情ある路面電車に揺られ、20分ほどで「天王寺駅前」駅へ到着。
目の前には"あべのハルカス"がそびえ立ちます。日本で2番目に高いビルです。
ここからJRに乗り換えて当初の作戦通り法隆寺を目指すのですが、せっかくなので"聖徳太子つながり"の「四天王寺」にも寄ってみることにしました。
徒歩で約15分。
駅前の大通りではなく、すこし裏に入った"南門筋"を使い、まっすぐ進むと四天王寺・南大門へたどり着きます。
聖徳太子創建の七寺と呼ばれるものがありまして、奈良斑鳩の法隆寺をはじめとして、この四天王寺もそのうちのひとつに数えられます。
とはいえ、その七寺も実際に太子が創建に関わったのか確証はないらしいのですが、四天王寺と法隆寺の二寺に関しては確実、といわれているようですね。
こうした歴史ある大寺院には焼失や再建の物語がつきものですが、この四天王寺も幾度も悲劇に見舞われています。
象徴的な五重塔も、大火や台風、戦禍によって失われて、現在のもので8代目となるそうです。
とくに昭和20年(1945年)の大阪大空襲の際には伽藍全体が甚大な被害を受け、その後の懸命な再建活動を経て、約20年以上も掛けて、かつての姿を取り戻しています。
五重塔も鉄筋コンクリート造として生まれ変わり、1959年にその威容を再び見せてくれるようになりました。
今回の旅での大阪編はこの2個所で終わり、と決めて、四天王寺を離れてJR 「天王寺」駅へ戻ります。
奈良駅まで直通の"大和路快速"に乗ると、「法隆寺」駅までは20分くらいの距離。
地理的にも"聖徳太子創建"の文句がしっくりくる近さです。
太子に限らず、全国各地に広がる"ゆかり"伝説の中には「うそだぁ。」ってくらいに地理的に離れてるものも多いですよね。弘法大師伝説とか。役行者伝説とか。
そういった、ちょっと信憑性の薄いような伝説たちでも、その名にあやかることになった経緯があるわけなので興味深いものがありますが、やはり実際に近くに、現実味のある距離感で立地するこの二寺は太子の存在を感じさせてくれます。
前回おとずれた時には駅から歩いて向かったのですが、今回はバスに乗って法隆寺へ。
奈良交通バスです。車体の側面には"鹿"がプリントされています。
奈良だなぁ。
法隆寺の建つ"斑鳩"の地の西端に、南北に流れる川がありまして、この川が和歌にも詠まれた「竜田川」です。
で、この川の紅葉のイメージと重ねて、"竜田揚げ"という名前が取られたという説があるそうです。
そんなわけで、法隆寺からほど近い「布穀薗」にてランチタイム。
ここは、幕末- 明治期に活躍した北畠治房男爵の晩年過ごした屋敷を改装したもので、立派で風情のある佇まいです。
もともとの家主の北畠男爵について。
この人は強烈に個性的な人物だったようで、幕末の若き時分には天誅組に参加して暴れまわり、明治になると司法官として大阪控訴院院長までのぼりつめ華族に列せられるなど、穏やかな法隆寺村出身者の出世頭といえる人物です。
ところが、北畠について残された記述によると「傲岸不遜でわがまま放題」だったり、「胡散臭いほら吹き」のようにも書かれていまして、法隆寺を訪れる旅人を勝手に堂内に案内して自流の解説を聞かせたり、あげく寺人を怒鳴りつけたり、といったこともしばしばだったようです。
「法隆寺を愛する頑固親爺」に困らされるエピソードが残っていて、笑えます。
一方で、明治初期の廃仏毀釈の際には法隆寺を守るために「法隆寺宝物の皇室献納」の仲立ちをしたり、活躍しています。
法隆寺信徒総代のひとりでもあり、また研究者としても確かなものがあったようです。
それにしても何度見ても美しい、法隆寺。
その美しさを守るのにひと役買った北畠男爵について、薄田泣菫の随筆では「禿ちょろけの老人」と描写されています。
愛らしすぎる。
ありがとう、老人!
感謝の気持ちをもって、近畿の旅を続けます。
丸山直己
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