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小寒、式日を背に

散歩:19187歩。

目が覚めてから5分くらいの間の、あの名付けようのないぼんやりとした時間がとても好きだ。外を走る車の音を聞きながら、しばらくは天井とか枕の周りにある読書灯やスマホを眺めるともなく眺めて、今日の予定(あってないようなものだけれど)がゆっくりゆっくり意識の表面に浮かび上がってくるのを待つ、あの時間だ。

今日はバイトも休み。というか、勝手に週休3日制を導入したので水、木、日曜は休みになっている。その代わり勤務時間を4時間から6時間に変更した。これで収入としては前より増えることになる。
生活実験の一環としてこの流れを少し続けてみて、以前と比べてどういう変化が起きるのかを観察してみる。

そんなわけでいつもより一時間ほど遅く起きて、布団に包まりながら休日の朝の幸福を噛みしめていた。朝食の準備をするでもなくコーヒーだけ淹れて、ヨルシカの新譜を垂れ流し、枕元に置いていた小川洋子さんの『深き心の底より』を手に取って読んだ。
控えめに言って幸せな時間だった。
毎日こうであってほしいと思った。
でも毎日こんな風に過ごしていたらそのうち飽きてしまうかもしれないので、たまにあるくらいが丁度いいのかもしれない。
幸福も長く続けばいつかは慣れてしまって、じきにそれ以上を求めてしまうようになる。

結局、そのままだらだらして昼になったので適当に食事を済ませ、部屋に掃除機をかけて散歩に出かけた。

最近、コーヒーを持ち運ぶための魔法瓶を買った。これがとても便利で、いつでも好きな時に熱いコーヒーを飲むことが出来る。大きいとポケットに入らないので350mlサイズを買ったのだけれど、だいたいコーヒー2杯分と考えたら十分である。これでバイトの休憩と散歩の時間が随分楽しいものになった。ただ、なかなか丁度いい温度にならないので常時口の中が軽めに火傷している。

その魔法瓶を持って今日は全く知らない道を選んで歩いた。
変にコンパクトな公園、主従関係の逆転した子犬と老人、テラリウムみたいな水路を見つけた。
あとはゴルフコースなのか公園なのかよく分からない場所に迷い込んだりして、そこに架けてあったよく揺れる橋で遊んだ。

帰りはいつもの湖沿いの散歩コースに合流し、ベンチでパンを齧りながら寛いでいた。
そういえば先日、この場所で晴れ着姿の女の人を見た。薄桃と浅葱が程よい感じで配色された、花柄の綺麗な着物だった。タイミング的に成人式の前か後だったのだろう、嬉しそうに女の人の写真を撮る両親と思しき人たちもいた。

私が成人式に参加したのはもう8年も前になる。
死ぬほど行きたくなかったのだけれど、両親と友人に無理やり連行される形で参加させられたのを覚えている。
式は長く退屈で、同級生やかつての担任と久しぶりに会っても何の感慨も湧かなくて(そもそも大した思い出の無い学生時代だった)、どうしてこんなものに熱を上げる人がいるのか不思議でならなかった。
一生に一度のイベントだから、という人もいるが、それを言ったら毎日とは二度とこないイベントの連続のようなものだろう……、というのは随分説得力に欠けた屁理屈だ。
結局のところ、つまらない学生時代を送った人間が成人式を楽しめるはずもなかったのだ。
二次会を断り、その場でライングループも抜けて帰宅した。

そんな忘れてもいいはずの記憶を私は持ち続けてしまっていて、そこに何かしらの意味や教訓があるのかどうか、いまだに分からないままでいる。少なくとも楽しい記憶ではない。毎年必ず起こるイベントだから、その度に自分の記憶を掘り起こしてしまって、それを繰り返すうちに脳が勝手に覚えてしまっただけなのかもしれない。

実を言うと、当時好きだった人と何か意味のあるやり取りをした気もするのだけれど、その部分の記憶だけが不自然なくらいに茫漠としている。
成人式に関して後悔があるとすれば、その会話の内容を忘れてしまったことだ。なんだかひどく女々しい。

いつの間にか、晴れ着の女の人は居なくなっていた。

また来年も、私は同じことを思い出すのだろうか。

テラリウムみたいな水路。
よく揺れる橋。
コンパクトな公園。
鴨。
休みの日なのにバイト以上に動いた。

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