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普遍性(不変性)にさよなら

「ね、尾田さん。新しい出発をしましょう。それには、まず癩に成りきることが必要だと思います」

と言うのであった。便所へ連れて行ってやった男のことなど、もうすっかり忘れているらしく、それが強く尾田の心を打った。佐柄木の心には癩も病院も患者もないのであろう。この崩れかかった男の内部は、我々と全然異なった組織ででき上がっているのであろうか、尾田には少しずつ佐柄木の姿が大きく見え始めるのだった。

「死にきれない、という事実の前に、僕もだんだん屈伏して行きそうです」

と尾田が言うと、

「そうでしょう」

と佐柄木は尾田の顔を注意深く眺め、

「でもあなたは、まだ癩に屈伏していられないでしょう。まだ大変お軽いのですし、実際に言って、癩に屈伏するのは容易じゃありませんからねえ。けれど一度は屈伏して、しっかりと癩者の眼を持たねばならないと思います。そうでなかったら、新しい勝負は始まりませんからね」

「真剣勝負ですね」

「そうですとも、果し合いのようなものですよ」

北條民雄『いのちの初夜』  ※青空文庫で読めるよ。読もう。

ここ一ヶ月くらい何も書けない日が続いた。
これは私にとってはけっこう珍しいことで、いつもは思いついたことやら日々の記録を一旦下書きのような形でnoteに残しておくのだけれど、それすらできずに組み立てた文章は紐の抜けたビーズ細工みたいにぱらぱらと崩れてしまって、もうどうしようもなかった。

定期的に書く、というひとつのルーティーン(ルーティン、とどちらが正しいのだろう?)が乱れると生活の他の部分にも影響が出る。
それが連鎖していくつもの「いつもの」がダメになって、気が付くと毎日がエメンタールチーズ(トムとジェリーでよく見るアレ)のように穴だらけになってしまっていた。

たかが一ヵ月だろう、と思われるかもしれない。
でも日常なんてものは些細なつまづきでオシャカになってしまうくらいに脆い。

原因は精神的な不調だろうからとにかく元の流れに再び戻ろうと瞑想やら日向ぼっこやらデジタルデトックスやらを試したものの、これといって効果は無く、最終的には無意識が悪さをしているのだと決めつけてフロイトやラカンの精神分析に手を出した。何も書けなくなったのと同じタイミングで早朝覚醒と悪夢に悩まされるようになったからだ。

結局何も分からなくて、廃墟のような生活だけが残された。

そんなわけで働いている時間以外は基本的に横になってボケっと過ごし、無意味な時間が形を成す前に溶け流れていくのを眺めていた。
というより、自己観察に努めていた。

思えば、私はしょっちゅうなんちゃって仏教知識を引っ張り出しては「諸行無常也」と偉そうなことを言っているわりに、いざ自分自身や周辺に変化が起きるとそれなりに狼狽するし不安定になる部分がある。
それに、今回みたいにもう無くなったり形の変わってしまったものを取り返そうと執着する様子を見せるあたり、まだ自他に対する期待がしっかり残っているのを感じる。

こういう、変わりつつあることや損なわれた空白をどうにかしようと躍起になるから心が苦しくなるのだという結論に辿り着いたことを、私はすっかり忘れてしまっていた。

これまでの私Aは、すでにA’に移行してしまったのだから、そこに変更可能な点を見出せない以上はなんとかA’にうまく折り合いをつけて受け入れていくしかない。

そう考えるようにしてから少し楽になった。
もちろんこれは全てに応用が利くわけではない。こんな言葉だけの気休めみたいなものではどうにもならないことなんていくらでもあるし、やっと変化を受け入れたと思ったらすぐに別の変化が起きてそれまでの労力が踏みにじられることだってある。
でも、手に入らない理想にしがみつくよりは、更新された世界線の中で位置を変えた固有の幸福を探る方がよほど建設的ではないだろうか。

一応断っておくと、これは諦めや妥協とは違う。
いうなれば調律のようなもので、環境や心境の避けられない変化に合わせて自分の求めるものを改めて見つめなおす作業に近い。

というわけで早朝覚醒も悪夢もどうにもなっていないし、今この瞬間も「なんか今までと文章の書き方違う気がする」と感じながらキーボードを叩いている。

生活は依然不調のままではあるけれど、健康を著しく害さない限りはこのまま不調の底まで降りて、かつての普遍(不変)に別れを告げて、そこからまた生き方を考えればいい、と今は思う。

したがって、重要なのは<理想>とは別の場所で「幸福」を見出すことです。<理想>とは結局≪他者≫の世界のものですから、<理想>に依拠し続けている限り、<至福>に至れないことへの苦しみは消えません。他方、<特異的な幸福>は≪他者≫の世界において理想的とされるか否かが問題にならないのです。

片岡一竹『ゼロから始めるジャック・ラカン』, p315






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