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男が読んだ「夏物語」

川上未映子の『夏物語』を読んだ。

本編は二部構成になっていて、一部が2008年の夏で、二部はその8年後の夏が舞台となり、最後はその3年後の2019年の夏で終わる。

タイトルは夏の物語ということと、夏目夏子という、主人公の名前からきているのだろう。

本作の一部と二部はだいぶ印象が違う小説だ。元々、一部は「乳と卵」という一つの独立した小説であったことも関係しているだろう。第二部は、「乳と卵」の続編という捉え方もできるし、一つの別の小説のようにも読める。

ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」が元々二部構成であり、一部では、ほとんど目立つことのない三男アリョーシャが主人公の理由は二部を読めばわかるとドストエフスキーが冒頭で書いたように、「乳と卵」では、ただの語り部でしかなかった主人公夏子は、二部では、(語弊があるかもしれいが)大暴れし、ストーリーを盛り上げる。

私が楽しく読んだのは、やはり二部からだ。一部では、普段は大阪にいる姉の巻子、巻子の娘の緑、そして小説家を目指している夏子の三人が主な登場人物で、その世界は限りなく閉じている。そして、閉じているからこそ、美しい世界と、ラストの感動がある。血でつながった三人は広い世界の中で、たった三人なのに孤独ではない。そこには、閉じた家族の美しい絆がある。

しかし、二部では、巻子と緑の姿はほとんど描かれない。彼女たちは地元の大阪に戻りそれぞれの生活をしている。物語の焦点になるのは、小説家になった夏子にあたる。物語は新しく、魅力的な登場人物が数多く登場する。編集者の仙川は夏子の才能に気がつき、大阪弁という共通点もあって、一気に夏子との距離を縮める。遊佐は売れっ子小説家で、パワフルなシングルマザーだ。夏子の小説の才能を評価し、急速に仲良くなる。

彼女たちに出会い、感化されながらも、次の小説をなかなか書けないでいる夏子。理由は、「子どもを産みたい」という気持ちが頭の片隅から消えないからだ。38歳になる夏子に現在、パートナーはいない。そして、作る気もない。なぜなら、夏子は性行為に拒否感があり、そのせいで、前の彼氏と別れたことがあるからだ。また、付き合っても同じことの繰り返しになるのは目に見えている。しかし、子どもには「会いたい」。

そこで、夏子は「AID(人工授精)」について、ネットや本で調べ続ける毎日を送り始める。寝ても覚めてもAIDのことを考え、AIDによって生まれたことを大人になってから知り、実の父親を探している逢沢潤に興味を持つ。AIDによって、産まれた子どもは、実の父親を知らずに育ち、大人になってから、真実を明かされ深く傷つく。AIDで産むことは、親のエゴであり暴力なのではないか。さらに、逢沢の彼女の善百合子はAIDで産むだけでなく、そもそも「産む」ことこそが、親の暴力であり、子どもは一度たりとも自らが望んで産まれたことはないという反出生主義を唱える。

彼ら彼女らの意見を真剣に考えながらも、夏子は「それでも、子どもに会いたい」という気持ちを消すことはできない。

なぜ、親は子どもを産むのだろうか。

多くの人がそこまで真剣には考えず、自然に産んでしまったり、とりあえず産んでしまったり、なんとなく産んでしまっている。だから、今も人類は滅びることなく繁殖し生物の頂点にいる。

考えれば考えるだけ、子どもなんて産まなくてもいいはずだ。お金もかかるし、話は通じないし、仕事が普通にできなくなるし、なにより面倒くさい。日本が少子化になるのは当然だ。子どもをつくるメリットがひとつもないのだから。

それでも、子どもを産みたいと思い、時に後悔し、時に本当によかったと思う。シングルマザーの遊佐は、子どものために自分は生きていると言い、独身の仙川は子どもを産む人間はバカだと言う。どちらも正しく、どちらにも言い分がある。

第二部に登場するのは、多くの多様な「声」だ。その一つ一つを作者は否定しないし、正しい結論を出すことはない。あるのは結論ではなく、その人それぞれの「決断」だからだろう。人生に正解不正解がないように、物語の登場人物たちにも、それぞれの言い分と人生があるのだ。

「声」の中には、当然聞きたくない声や汚い声もある。それは、夏子の友だちの主婦の旦那の愚痴だったり、AID被害者の会で「神さま」がすべてを決めているという女性の声、そして、夏子に精子提供をしようとする男の声だ。

このようなノイズ(汚いもの、聞きたくないもの)は第一部では描かれなかった。なにせ、美しくないからだ。しかし、これらの「声」を描いたことこそに、この小説の豊かさが象徴されている。閉じているからこそ美しい世界から開かれているからこそノイズのあふれる世界へ。ノイズは排除するものではなく、包摂するもので、この世界の豊かさの一つでもあるというふうに読んだ。

そして、私が読んでいて一番笑ってしまったのもそのノイズだ。夏子に自分の精子を提供しようとする中肉中背の男は、自身の精子がいかに素晴らしいかを語り(運動率や濃度が高い)、精子を数多くの女性に届けることこそ、自らの使命だと言う。しかし、結局、セックスが一番いいなど言い始めたり、やっていることは、ただの変質者のそれであり、夏子は、絶望に突き落とされる。

この男の描き方がひどい。男としては、いやいや、この世界には、こんな男しかおらんのかとツッコミをいれたい。この長い小説の中でまともに描かれるのは、あとは夏子の元彼と逢沢だけなのだが、元彼は3.11後、脱原発思想にとりつかれ、別れた夏子にクレームをいれるような人になる。逢沢は、ちゃんとした人(医者)なのだが、AID被害者の会は善百合子に感化されて入ったのに、夏子に惚れたらすぐ辞めるというフワフワぶり。あんまり、自分の考えとかない人なのかな、と思ってしまった。あと少し描写があるのは、第一部で描かれた夏子の父(ろくでなし)や、第二部の遊佐の別れた夫(子どもに執着なし)、夏子の友だちの父&夫(どっちもろくでなし)と善百合子の父(最低のクズ)くらいだろうか。いや、逢沢潤の父(いい人)の話があった。ボイジャーの話はめちゃくちゃよかった。しかし、その描写もよく考えてみれば男(逢沢)視点からのものだ。逢沢の母が語る逢沢の父はひどい人間だった可能性はある。

総じて、男性の描き方がひどい。いや、男はバカだ。それは、自分が男だから否定はしない。自分のことしか考えてない。妻を見ていると、よく思う。女性は優秀だし、男よりもいろいろなことを考えている。だからこそ、AIDの話になる。小説そのものの豊かさとは別に、この小説の結末は、ノイズ(男)のいない美しい世界へ向かってしまう。

しかし、しかし、しかしさあ。

ラスト、夏子は逢沢といい感じになったのにも関わらず、逢沢の精子だけをもらい、その後は逢沢とは一緒に暮らすことはしないと夏子は決める。

もちろん、それは夏子の決断だ。夏子は自分の決断に後悔していない。しかし、本当にそれでいいのか、逢沢潤?おまえは、そんなに簡単に夏子と一緒に暮らすことを、自分の子どもと一緒に暮らすことを諦めてしまうのか?

男は確かにこの世界には、もはやいらないのかもしれない。正しく美しくあろうとするとき、男は不要な存在になる。しかし、彼女たちから男が産まれるのも、また事実なのだ。夏子が産んだ子どもは、たまたま女の子で、夏子の姉の子ども緑もたまたま女の子で、遊佐の子どもも女の子だ。けれど、いつか、彼女たちだって男を産む可能性はある。その時、男はノイズだから排除し、美しい世界をつくろう、とは思わないはずだ。男も女もいる、それが自然で、そのノイズを認めない限り、豊かな世界は生まれない。

逢沢は、夏子と夏子の子どもと暮らすことを諦めるべきではない。自らがノイズであることは自覚しても、それでも2人と一緒にいたいと夏子に粘り強く言い続けるしかない。男の存在価値は、なにも、生殖能力だけではない。他にもある。きっと何かある。それを、逢沢もこの小説を読んだ男性読者も探し続け、主張し続けなければいけないのだろう、と思った。