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母の最期の言葉

小説をこよなく愛する母の青春時代の愛読書は山本周五郎の作品で、月刊「文藝春秋」もよく読んでいた。そんな昭和2年生まれで91歳の母が、入退院を繰り返していたため、私は平成最後の正月を落ち着かない気分で迎えた。

母は晩年、昔の思い出話をするようになった。
「子供の頃は、1人でポータブルの蓄音器を抱えて、歌いながら1キロくらい離れたおばあさんの家によく遊びに行ってたよ」

小学5、6年生だったのか、女の子が持てるポータブル蓄音器とは、どんな物だったのだろう。何故、蓄音器をわざわざ抱えて行かなければならなかったのか、今頃になって聞いてみたくなった。

「(また、Aちゃんが歌いながら通る)と近所の人が言っていたらしいよ」

その年頃には、海軍基地の工作所で働いていた父親に、雨の日は傘をよく届けていた事も、母は優しい表情で語った。戦前の平穏な日常に、自然と心が和む。

大東亜戦争が勃発したのが昭和16年で母は14歳、終戦時は18歳になっていた。
多感な頃の4年程の辛い経験を、殆ど話した事は無かったが、晩年になり語った出来事が鮮烈に印象に残った。

父親は台湾に出兵し、残された母親、弟、2人の妹そして自分の合計5人で家を守っていた。

「空襲が激しくなっていったある晩にね、弟は男だから家を守るために1人残って、母親に負ぶわれた1歳の妹と私達3人は、山の中へ草をかき分け、かき分け逃げたのよ」

家に残った弟は中学生くらいだったのではないか、女性だけで恐怖に慄きながら、暗い山道を必死で逃げる姿が、映画のワンシーンのように瞼に浮かんだ。

母の職場は、当時は珍しい鉄筋コンクリートの建物で、敵に重要施設と思われたのだろう、遂に爆弾が投下された。私は、実感の篭った話が怖くて、向き合う勇気がなく上の空で聞いていた。
「ねぇ、聞いて聞いて」母は堰を切ったように話を続けた。
「私には、一般事務部屋の机と、タイピスト部屋の机の2つがあり、仕事に合わせて使い分けていたのよ」
「そうだったの」
「タイピストの部屋を軍に貸す事もあったからねぇ」

何か情報が漏れていたのか、レーダー探知機なるもので軍と関係がある場所だと知られていたのだろうか。

「焼けた職場に戻って驚いたのよ、タイピスト部屋の私の椅子のど真ん中に爆弾が命中していてね、もしそこで仕事をしていたら、逃げる間もなく死んでいたかもしれない」
幸い他の人も逃げ出し無事であった。九死に一生を得た母の体験談を聞き、胸が締め付けられる思いがした。

末っ子の妹は、父親が戦地に赴いている時に生まれていた。終戦後、父親が戦地から戻り、家族で暮らすようになっても、3歳位になっていた妹は「お父さんはラバウルにいる、おとうさーん」と実の父親の側で、縁側から遠くに向かって叫んでいたらしい。母は、娘のように可愛いがっていた16歳下の妹と父親の想い出を、懐かしむように語った。

母を目当てに、家の近所に3人の男性が引っ越してきた。まるで、昭和の恋愛ドラマのネタにでもなりそうな話である。昔の若者の行動力に脱帽した。

そして、その他にも何人かに交際を申し込まれたが、両親の承諾が得られず、ご縁がなかった。結局9歳年上の父と、30歳でお見合い結婚をした。

当時としては珍しいキャリアウーマンで、責任のある仕事を任され部下もいた。臨月まで働いた努力の人だったが、心ない職場のある男性から「ドン腹を抱えて‥」と揶揄された事もあった。その後、母が退職して私が生まれ、1年10ヶ月後に弟が誕生した。

生後11ヶ月かそこらの私は、母に抱かれ梅の花を指差し「この花、きれい」と言っていたらしい。花好きの母の言葉を真似ていたのだろう。その様子を見ていた明治生まれの祖母に「賢過ぎる子どもは、養子に出した方がいい。とよく聞くよ」と言われたらしく、母は若干の不安を抱いていたようだった。

どういう意図で養子に出すのだろうか、時代錯誤も甚だしいが、お陰様で心配するほど賢く成長せず杞憂に終わった。

私が小学校2、3年生の頃、放課後の習字の練習で、よくブラウスに墨を付けて帰ってきた。叱られた記憶はないが、困った母は、たまりかねて習字道具をどこかに隠してしまった。あれ、道具がない、と必死に家中を捜した(もしかしたら、ここにあるかもしれない)納戸の部屋に椅子を持ち込み、それに乗って手を伸ばし、箪笥の上を右手で撫でながら捜すと、箱らしき物に手が触れた。(これだ!)と思った。
右手を思いっきり伸ばし、引きずり下ろすと習字道具だった。
「やっと、見つけた」と嬉しかった。それから何事もなかったように習字の練習を再開したが、母は何も言わなかった。それ以来、習字道具が行方不明になる事はなかった。

母は、晩年にその事について「子供の学びを妨げるとは、なんという親だろう」と自責の念に駆られているようだった。

母は台所に立つと、いつも歌謡曲を口遊んでいた。
父が市議会議員に立候補する事が決まってから、母のその姿は見られなくなった。中学1年生だった私は、子供ながらに心情を慮った。

母は、決して口下手ではないが、褒め上手でもなく、本音で話すタイプで、たまの褒め言葉もあっさりしていた。私に「よく、お金を貯める事が出来るもんだね」と言った。ただの感想なのか、もしかして私は褒められているのかしら。

私が20代の頃、友達から届いた結婚式の招待状に(当日は、歌を歌ってください)とメッセージカードが添えられていた。母はその事を知ると「音痴だから、人前では歌わない方がいい」とズバリ本音のアドバイスをした。もちろん私も自覚があったので、丁寧にお断りをした。

それから何年か後に「新聞で、音痴は決めつけない方がいい、という記事を読んだよ」母は、若干の反省をしていた。

母方の親戚には、ピアノを弾いたり歌の先生だったり、音楽に長けた人が多く、母も歌が上手だった。職場の宴会で、よく歌っていたようだ。十八番は淡谷のり子の「支那の夜」で高音が得意だった。カラオケのない時代にアカペラで歌っていたのだろうか、人前で披露できて羨ましい限りである。

母が毎年のように、味噌の手作りをしていた。私は結婚し5人家族になり、よく味噌作りの手伝いに帰省し、1年分の味噌を貰って帰るのが恒例になっていた。正月用の餅も電動餅つき機でついて、沢山お土産に持たせてくれた。両親には様々な形で愛しみを受けてきた。

厳格な父が80歳頃に認知症になってしまった。父の病気は徐々に進行していき、母の献身的な介護は、5年もの長い間続いた。子供達に迷惑を掛けまいと、泣言はあまり言わなかったが、自宅介護も限界という頃、弟の勧めもあり父は環境の良い介護施設に入所した。

一人ぼっちになった母は、誰もいない家でよく泣いたそうだ。憚る人がいないから、声を出し涙が枯れる程泣いたかもしれない。この寂しさは、経験した人にしか分からないだろう。

弟家族や私の家族と父の居る施設に見舞いに行くと、母は父の為に施設で過ごす時に着る上着やズボン、下着にも拘り色々な面で父のためにお金を使っていた。
それは、施設に預けてしまって申し訳ないという気持ちと、父へのこれまでの感謝からだったと思う。そして、お金は天下の回りもの、という思考も手伝っていた。そして人を喜ばせることを好み、信念としていた。父はその施設で5年間お世話になり、そこで息を引き取った。

平成15年に、次男が東京大学の理科2類を受験することになり、母はお祝い金を用意して、吉報を待っていたが、残念ながら不合格の知らせを届けなければならなかった。
私大に合格をしていたが、浪人の道を選んだ次男に「来年も頑張りなさい、合格したらまたあげるから」と合格祝いに準備していたお金を気風良く手渡した。息子のモチベーションが上がったのは間違いない。翌年、息子は合格を果たし、母の自慢の孫になった。

母は、たまに言葉や所作が上品になる事があった。ある日、父を見舞った帰り、私たち家族とランチをしている時、母が湯呑みのお茶をテーブルにこぼしてしまった。

お店の人に「すみません、粗相を致しました」と頭を下げる様子に、私は(あら、お上品な振る舞いだこと)と思った。これが若い頃にモテた所以かもしれない。

母は、不思議な夢を見る霊感の持ち主だった。
実家の直ぐ近くに、東側の土地に住む父の叔父夫婦がいた。2人は「まんが日本の昔話」に登場する優しい老夫婦のように、いつも笑顔だった。

親戚からは「東の叔父さんと叔母さん」と呼ばれていた。夫婦で元々は他人の筈なのに、2人はよく似た温厚な顔立ちだった。

ある夜、東の叔母さんが危篤状態になり、医者と看護婦、家族全員が看取りのために集まっていた。
母が床に就いていると「Aちゃん、今晩は」と言って、誰かが玄関の戸を開けて入ってきた。母は、東の叔母さんがお別れを告げに来た夢を見たのだった。ハッと目が覚め飛び起きて、それから一目散にその叔母さんの家へ向かった。

息を切らしながら、家の戸を開けると、医師と看護婦、家族全員が座ったまま、うつらうつらと居眠りをしていた。
「先生、先生、起きてください」と母が声をかけると、周りの家族も目を覚ました。それから何分も経たないうちに、東の叔母さんは、家族に見守られながら旅立っていった。

平成30年の秋が深まり行く頃、母はお得意の夢の話をした。
「これくらいの箱(みかん箱の半分程)が、真ん中を縦に仕切られて、飾り棚のように置かれていてね、右には大好物の栗饅頭が置いてあって、左は空っぽだったのよ。栗饅頭を取ろうとしたら、空っぽの方から右手がスッと出てきて、栗饅頭は取らずに、その右手と握手をしたのよ」

あの右手は、紛れも無く父の手で、体調の優れない私に「頑張りなさい」と元気づけてくれたのだ。と母はいたって真面目に解釈していた。まるで、手品を見ているような光景だ。栗饅頭を取ろうと思いきや、母が、父の手の温もりを選んだ。父が栗饅頭を使って上手く誘導したのか、手が込んでいる。

母の通院や買い物は、車で10分程の所に住む弟夫婦が担い、義理の妹がテキパキと面倒をみていた。何かあると直ぐに駆けつける息子夫婦と、歳の離れた妹が近くに住んでいて恵まれていたと思う。

しかし、持病や年齢には抗えず、90歳を過ぎた頃には入退院を繰り返すようになった。それから、長男の家へ引っ越して間もない、その年の年末に3回目の入院をした。

いよいよ看取る時が近づいていた。平成31年1月9日、私たち夫婦は、車で母の元へ向かった。私は車窓から、冬枯れの景色を眺めながら「老人は入退院を繰り返して、亡くなっていく」という話を思い出していた。正月の影響で道路が混み、病院へ着いたのは、家を出発してから2時間が経過していた。

夫は風邪を引いて体調が優れなかっため、母を見舞った後、私の実家で身体を休めることになった。
病院に残っていた私は、何時間か経ってから、実家へ行き3時間の仮眠を取った。その後、夜中の真っ暗い田舎道を、車で10分走らせ病院へ蜻蛉返りをした。真冬の寒さを感じる余裕もなく病室へ行くと、義妹が長椅子に横たわり付き添っていた。

義妹とバトンタッチをして、母の容態を見守った。苦しそうではなかったが、足をモゾモゾと動かしていた。触ると冷たく、痩せ細ったその両足を何も考えず摩り続けた。

白々と夜が開け始めて、カーテンを開けると、朝日が病室に差し込んできた。母は、だんだんと足を動かさなくなり、落ち着いてきたように感じた。今のうちに、実家に残っている夫にお弁当を買って届けようと思い、バッグを掴み立ち上がり、何歩か歩くと「りょうこ、りょうこ」と母が呼んだ。

私が病院に駆けつける5日前、母と電話で話したときは、か細い声だった。突然、いつもの元気な頃の声がしたので、ハッと驚き一瞬たじろぎ後戻りして母の顔を覗き込んだ。

すると母が「すみませんでした」と目を瞑ったまま優しい声で言った。
思いも寄らないその言葉に狼狽した。私が「何も悪いことはしていませんよ。大丈夫ですよ」そっと顔を近づけて言うと、母は頷くような仕草で顎を2、3回上下に動かしただけで、他には何も話さなかった。なんだか他人行儀な会話だったが、母らしいとも思う。私は一安心して病室を出て、車で10分程走りお弁当屋さんに着いた。

自分の分も買うつもりでいたが、さほど食欲も無く、どれを買うか迷っていると、義妹から慌てた様子で電話があった。 
「お義姉さん、お義母さんが危ないかも」
「分かった、直ぐ病院に戻るね」
「すみません、急用ができました、また来ます」と何も買わず慌てて店を出た。

「母がいよいよ危ないみたいだから、タクシーで病院まで来て」待機中の夫に急いで電話をしてから病院へ引き返した。

病室に着くと義妹が「おかあさん、おかあさん」と大きな声で話しかけていた。私もかけより泣きながら「今までありがとう、育ててくれてありがとう」と何度も繰り返し言った。

「Tが東大に合格したのも、色々助けて貰ったお陰です」と私が言った途端、母は口を開けて笑顔になった。
「あ、聞こえているんだ、お母さんありがとう、ありがとう、幸せでした」と義妹が更に大きな声で言った。

どれくらいの時間が経っただろうか、義妹と2人揃って泣きながら母に何度も話しかけた。そして、いよいよ心臓モニターも終わりを告げた。担当の医師に「先生、今までありがとうございました」と深々と頭を下げる義妹が立派だった。

弟も夫も急いで駆けつけたが、臨終には間に合わなかった。
「今までありがとうな」と弟は、母の亡骸に優しく何度も繰り返し言っていた。普段から口かずの少ない夫は、風邪のせいもあり、少し離れて別れの挨拶をした。

母が亡くなる日、私に言った最後の言葉「すみませんでした」に、想いを馳せる事がある。
女の子は、あまり勉強をしないで早く結婚をして欲しい、自分のように技術を身に付けると晩婚になってしまう。と思っていた節がある。弟だけを大学に通わせた事、賢く育つ事を危惧していた事、習字道具、音痴の話などを気にして、長い間心の奥底に仕舞い込んでいた感情だったのかもしれない。

亡き母に、言い足りなかったことを伝えたい「なんにも気にしていません、私のことを想えばこそですよね。人生の終わりゆく日に子供に謝るなんて、勇気のいることでしたね。尊い経験をしました。有難うございました。私は今、幸せな人生を歩んでいます」

いずれにせよ、母は、私との最後の短い会話で安堵して旅立ったと思う。あと、20日で92歳だった。母が亡くなる3ヶ月程前に、夢で父と交わした握手は「よく頑張った、こちらで待っているよ」という父からのメッセージだったと思う。


















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