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三島由紀夫VS東大全共闘 伝説討論会を文字に起こしました

戦後の日本を代表する作家
三島由紀夫。

自衛隊の駐屯地で
割腹自殺を遂げる
1年半前の1969年5月。

三島由紀夫は
ある討論会に出席しました。

その討論の相手は…
「東大全共闘」です。

天皇主義者でありつつ
戦後の天皇制には
批判的だった三島と

過激な学生運動をリードした
東大全共闘。

「極右」と「極左」
両者による
伝説的な討論会の
一部を収めたフィルムが
TBSの倉庫に眠っていました。
(NEWS23 2019年5月16日放送)

東京大学駒場キャンパス。

900番教室と呼ばれる
その場所が・・・

50年前にあった
伝説の討論会の舞台でした。

1969年5月13日。
900番教室を埋め尽くしたのは
1000人を超える
東大全共闘の学生たち。

そこに単身乗り込んで
公開討論会に臨んだのが

世界的な文豪
三島由紀夫です。

この年のはじめにあった
東大・安田講堂攻防戦。
大学紛争は、全国的な広がりを
見せていました。

保守の論客として学生運動に
批判的な立場だった三島。
思想的には正反対の学生たちに
囲まれながらも
時には冗談をおりまぜる
余裕も見せていました。

●三島
「仄聞しますところによりますと、これは何か100円以上のカンパを出して集まっているそうですが、私は謀らずも諸君のカンパの資金集めに協力していることになる。(学生たち笑い)」
「私はこういうような政治的な状況は好きではない。できればそのカンパの半分をもらっていって、わたくしがやっている『楯の会』の資金に取っておきたい
(学生たち笑い)

また、学生運動については、
すべてを否定するわけではなく
一部評価する発言も。

●三島
「私は今までどうしても日本の知識人というものが、思想というものに力があって、知識というものに力があって、それだけで人間の上に君臨しているという形が嫌いで嫌いでたまらなかった」

「全学連の諸君がやったことの、全部は肯定しないけれども、ある日本の大正教養主義からきた知識人のうぬぼれというものの鼻を叩き割ったという功績は絶対に認めます」

一方の学生側。
三島を思わず「先生」と呼んでしまう場面も…

前段、ペースを握った三島は
巧みに討論を進めていきます。

●全共闘A
「人間というものが他人を切り離して存在しうるか。これは存在し得ないわけですね。三島さんにお聞きしたいのは、人間にとって他人というのはどういうものであるのか」

●三島
「対立というものが他者というもののイリュージョンを作っていかざるを得ない。それで私はとにかく共産主義というものを敵にすることに決めたんです。これは主体性ある他者というふうに考えているわけです。」

しかしある人物の登場で
場の空気が一変。

長髪にひげを生やし、
赤ん坊を抱いたこの男性。
全共闘最大の論客といわれた
芥正彦(あくた・まさひこ)氏です。

三島を「敗者」と位置付けるなど、
激しくかみつきました。

●芥
「三島さんは敗退してしまった人だということになるんですけどね」

●三島
「まだ敗退してないぞ」

●芥
「僕にはそう見えますけども」

「あなたのとり得た形態が一向に暴力的に僕らには何ら差し迫らないということですね。僕らの行為そのものは形態が即内容であり、内容が即形態になる。これは一つのまあ革命でなくて一つの表現なんですけどもね。」

当時から劇団を主宰し、
今も演劇家として活動を続ける芥氏。
三島の印象をこう話します。

●元東大全共闘 芥正彦氏
「2つ穴がカーンってあいて向こうにアンドロメダが見えそうなくらいの空虚な目をぎっとこっちに向けて、一瞬か二瞬くらいですよね。なんでこんなに緊張しているんだっていう、今にも殺されそうな」

●芥
「あなたはだから日本人であるという限界を超えることはできなくなってしまうということでしょう」

●三島
「できなくていいのだよ。僕は日本人であって、日本人として生まれ、日本人として死んで、それでいいのだ。その限界を全然僕は抜けたいとは思わない、僕自身。だからあなたからみたらかわいそうだと思うだろうが」

●芥
「それは思いますよね、僕なんか」
「むしろ最初から国籍はないのであって」

●三島
「あなたは国籍がないわけだろう?自由人として僕はあなたを尊敬するよ。それでいいよねぇ。けれども僕は国籍を持って日本人であることを自分では抜けられない。これは僕は自身の宿命であると信じているわけだ」

●芥
「それは一種の関係づけでやられているわけですね」

●三島
「そうそう」

●芥
「だから当然歴史にもやられちゃうわけだし・・・」

●三島
「やられちゃうというか、つまり歴史にやられたい」

「歴史にやられたい」と語った三島。
この時すでに自らの死が
念頭にあったのでしょうか。

ただ、厳しいやり取りの中でも
お互いに敬意を示せたといいます。

そして討論のテーマは
天皇陛下に移行します。

●三島
「私のいう天皇というものは現実の天皇つまり統治的天皇と、文化的、詩的、神話的天皇とが、一つの人間でダブルイメージを持ち、二重構造をもって存在している」

●全共闘G
「要するに天皇というものは一体何のためにあるかというと、固い言葉を使うならば、ブルジョア秩序総体を、ある程度補完する意味で、天皇があるということ。それはハッキリと見せておかなければならない」「そこにおいて三島さんがそういう天皇の理念形態をたてること自体、空想以上の何物でもない」

天皇主義者でありつつも
戦後の天皇制を批判していた三島。
社会学者の宮台真司氏はこう話します。

●社会学者 宮台真司氏
「戦後、天皇主義者が一夜にして民主主義者に変わる。この連中は三島に言わせるとただの”一番病”。」

「周りが天皇主義的な空気だったら、”はい、僕が天皇主義者です!”と手を上げ、周りが民主主義の空気に代わると、"はい、私が一番の民主主義者です!"と手を上げるタイプの、本当に空っぽな入れ替え可能な存在」

「そういう空っぽのクズが日本人であり、日本もそうなっていると」

「それを回復するためには、一番病の道具としての天皇ではなく、心から、細胞の一つ一つまで天皇が宿るような構え。それだけが日本を日本にし、日本人を日本人にするのだと考えた。これが三島の思想ですね」

●三島
「僕らは戦争中に生まれた人間でね、こういうところに陛下が座っておられて、3時間全然微動もしない姿を見ている。とにかく3時間、木像のごとく全然微動もしない。(学習院高等科の)卒業式で。そういう天皇から(首席卒業の)私は時計をもらった。」

「そういう個人的な恩顧があるんだな。こんなこといいたくないよ?俺は。言いたくないけどもだね、人間の個人的な歴史の中でそんなことがあるんだ。そしてそれがどうしても俺の中で否定できないのだ。それはとてもご立派だった。その時の天皇は」

そして、三島は
学生たちにこう訴えかけました。

●三島
「これはあなた方に論理的に負けたということを意味しない。つまり諸君が天皇を天皇だと、ひと言言ってくれれば、俺は喜んで諸君と手をつなぐのに、言ってくれないから、いつまで経っても殺す殺すと言っているだけのことさ。それだけさ」

約2時間半にわたり続けられた討論。
「極左」と「極右」
思想的にかけ離れていたと思われていた
両者でしたが
最後に三島はこう結んでいます。

●三島
「天皇ということを口にすることも汚らわしかったような人が、この2時間半のシンポジウムの間に、あれだけ大勢の人間がたとえ悪口にしろ、天皇なんて言ったはずがない。」

「言葉は言葉を呼んで、翼をもってこの部屋の中を飛び回ったんです。」

「この言霊がどっかにどんな風に残るか知りませんが、その言葉を、言霊を、とにかくここに残して私は去っていきます。これは問題提起に過ぎない。」

「私は諸君の熱情は信じます。これだけは信じます。他のものは一切信じないとしても、これだけは信じるということを分かっていただきたい」

この討論会について
「大変愉快な経験であった」と記した三島。
翌年、1970年11月25日。

自衛隊市ヶ谷駐屯地に乗り込み、
割腹自殺を遂げました。

三島由紀夫は
1925年に東京に生まれ
1947年に東京大学法学部を
卒業したのち
大蔵省に一度入っています。
そして1970年に
自衛隊市ヶ谷駐屯地で
割腹自殺しました。(享年45)
代表作に「仮面の告白」「潮騒」
「金閣寺」などがあり
ノーベル文学賞の候補にも
挙がっていました。

【星キャスター】
「天皇は現人神だ」と言う
三島に代表される右派と

天皇制廃止を唱えていた
東大全共闘に代表される左派。
50年前は確かに国論が割れていた。

平成の30年間で
平成の天皇はそうした対立を
乗り越えようと
国民に寄り添う象徴という役割は何だと
考えてきて結局最終的には
象徴天皇が定着した。

三島が生きていたら、
平成の30年の天皇制をどうみるのか。
是非聞いてみたかったですね。