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友と呼ばれた冬~第17話

 税務署通りから小滝橋通りに出てタクシーを拾った。千尋との待ち合わせ場所の東口までは歩いていけない距離ではなかったが待ち合わせ時間が迫っていた。
 大ガードの手前から渋滞が始まり信号が2回変わっても動かなかった。待ち合わせの時間を少し過ぎている。タクシーを降りて歩いて東口へ向かいながら千尋に電話をかけた。

「もしもし?」
「すまない、少し遅れた。大ガードの信号を渡ったからもうすぐだ」
「真山さんは時間にうるさいって父が言っていたのに」

 千尋が拗ねたように言った。

 俺は交番の前で電話をしている千尋の姿を見つけた。背中の大きな紫色のリュックが目を引く。千尋に近づこうとしたが、東口の構内から千尋に目を向ける男の姿を見て立ち止まり人影に隠れた。見たことのない顔だ。

「落ち着いて聞いてくれ、そのまま大ガードに向かって進んでくれ」
「えっ?どうしたんですか?」
「心配いらない、俺が見ている。ゆっくり歩き出してくれ」

 緊張した面持ちの千尋が男の方へ向かって歩き出し男の前を通り過ぎると、男は駅を出て傘をさし千尋の後についた。俺は人混みに紛れて男に続いた。男は皺だらけの安っぽいグレーのスーツを着て透明のビニール傘をさしている。千尋に歩調を合わせようと不自然な歩き方をしていた。

「真山さん?」
「よく聞いてくれ、君を尾けてる男が居る」
「えっ?」

 千尋の足が止まりかける。

「大丈夫だ。止まらないで歩いてくれ。俺は男の後ろに居る」
「は、はい」

 千尋が再び歩き始めた。

「後ろを見てはいけない。そのまま進むと左側に西口に抜ける小さなトンネルがあるからそこに入ってくれ。そうだ、そこだ」

 千尋が人の波に紛れて入っていく。

「トンネルを出たら左に向かって走って大きな衣料店に駆け込むんだ、分かったな?」
「う、うん」

 俺は傘を閉じてトンネルに入り人混みを掻き分けて男の右側から抜き去り千尋を視界に入れた。トンネルを抜けると指示通り千尋が走りだした。背中のリュックが大きく揺れる。一呼吸置いてトンネルを出た男は千尋を見て慌てて駆け出そうとした。俺は男の右肩に手をかけて強引に振り返らせた。俺の顔を見ると大きく目を見開いた。俺の顔を知っている反応だ。

「誰だ?お前は」

 最後まで言う前に男の左膝が俺の右のみぞおちに綺麗に食い込んだ。胃液を飲み込んで傘で男の顔を殴りつけると手応えがあったが、俺はそのまま地面に崩れ落ちて呼吸ができなくなっていた。女の悲鳴が聞こえてきたが千尋の声じゃないのに安心した。男の足が人混みに消えていく。右の踵だけ擦りきれた黒い革靴だった。

 冷たい雨が頬を伝って顎先から落ちるのを霞むかすむ眼で数えていると、小さな赤い靴が目の前で止まった。

「真山さん!」

 今度は千尋の声だった。見上げると絶え間ない細い雨の線画の中で青ざめた顔の千尋が立っていた。ようやく呼吸が整ってきた。俺は精一杯強がって言った。

「いいダッシュだったな」
「走るの速いって言ったでしょ?」

 泣き笑いのような顔で千尋が答えた。

「とりあえず移動しよう」

 俺は傘を使って立ち上がり千尋に支えられた。小さな身体に似合わない力強さだ。急に老け込んだ気分になった。
 傘をさすと天辺に男の顔の薄皮が雨で張りついていた。やじ馬が幾重にも周りを囲んでいたが手をさしのべる者は誰も居ない。今はその無関心さがありがたかった。千尋に支えられながら大ガードの下で逃げようとする空車のタクシーのドアを叩いて強引に乗り込んだ。

「荻窪にやってくれ」

 行き先を告げるとルームミラーでこちらを迷惑そうに見ながら無言で発進した。俺たちが迷惑な客だと言うことは同業の俺にはよくわかった。ずぶ濡れで汚れた中年男と子供は俺でも乗せたくない。

「大丈夫ですか?」
「大丈夫だ」

 みっともなく膝をついていた俺はさぞ頼りなく見えたに違いなかった。新宿警察署が近づいてくると今日の目的を思い出し、千尋に大野の保険証と印鑑を手渡したが千尋にその理由を説明する気力はなく、このまま千尋を一人にすることもできなかった。

 千尋がリュックからハンドタオルを出して渡してくれた。

「すまない」

 ありがたくハンドタオルを借りて顔と髪の毛を拭いた。千尋が心配そうに目を向けている。

「怖い思いをさせて悪かった。俺のミスだ」
「そんな……。」
「すまなかった」

 俺は自分の不甲斐なさといくつもの疑問に黙りこんだ。雨音が煩わしいと思ったのは初めてだった。


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