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「一億総活躍」の掛け声に思う。

 女性が輝く社会ということで、政府は旗を振っている。輝く女子を持ち上げ、女性よ大志を抱け!とやっている姿は、威風堂々としたものである。

 僕は、女性の社会進出には大賛成である。毛沢東の「天下の半分は女性が支えている」という言葉を引くまでもなく、女性も男性と同じようにその能力を発揮し社会生活を楽しむことは当然の権利と考えている。

 ただ、ぼくが一つ問題と考えるのは、女性の活躍という名の下に、男性にはない負担を女性に押し付けているのではないかということである。

 女性には、出産という男性にはできない生理的機能がある。これについて、我々の社会は冷淡、というか恐ろしく残酷である。
 先日、あるニュースサイトに掲載されていた記事がある。妊婦さんの看護師が多忙のあまり産婦人科を診察することができず、死産してしまったこと、さらに驚くべきことに、死産した赤ちゃんを体内に宿したまま、出勤を余儀なくされたと。

 「男なみに働きたいのであれば、女性みずからが持つ身体的リスクは当然みずから引き受けるべきである。出産も生理も、自己責任において片付けるべきであり、それを社会をどうこうするのは責任転嫁であり甘えである」という意見がある。しかしそれは、平等と公平を混同しているのではないだろうか。条件の違う人、明らかに社会的に劣位に立たされている人、ハンデを負っている人、こういう人たちに対し条件を整備することは、社会の側として当然のことであろう。これは女性に限らず、あらゆる障害を持った方たち、また病気は持っているものの一定条件さえ整えばしっかり仕事ができる人たちについても同じことが言える。それが、形式的平等を超えた公平というものであり、目指すべきはそこである。

 北欧などの男女共同参画が進んだ国の女性がいかに「自立」しているからといっても、女性が死産した子どもを周りに黙ってお腹に宿したまま仕事をしているなどということが、考えられるはずがない。

 「男女共同参画」「一億総活躍」のお題目のもとに、女性のなかには仕事も家事も育児もすべてパーフェクトにやろうと頑張っている人がいる。頭がさがる思いである。と同時に、そういう同輩を見ている女性のなかには、「そこまでしてなんで働く必要があるのか。というか、私のような人間にはとてもじゃないがあんなことはできない。女性の自立とはいうけど、心身を壊してまでやる必要があるのか。というか、私はそんなスーパーウーマンじゃないし。」と冷めた目で世の中を見る人もいると思う。彼女たちもまた、常識人であろう。

 願わくば、そういう「スーパーウーマンじゃない」と思っている女性も気軽に正社員・フルタイムの労働市場に参加できるような世の中になってほしいと考える。

 それは、私の甘すぎる願いだろうか。

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