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でべその隠し方

自分は思っていることや伝えたいことなどを表に出すことが苦手だ。
俳優やっているんだけどな。
でも苦手なもんは苦手だから仕方ない。

そうなると初対面の人や集団に対してはとてつもなく人見知りする。
でもこの歳(34歳)で
「人見知りです」
なんて言うのは恥ずかしい。

そんなもんどうにかしろよ。とか
大体みんな人見知りだよ。とか
大人だろ。とか

だから人見知りなのに、人見知りでない風を装う。
いや、装えてないかもしれないけど
一人で大丈夫です。
一人の世界が好きなんです。
だから人見知りではなく、一人がいいんです。
のように。

でも元はと言うと、人と話すのは好き。
20代前半頃までは、年齢職業関係なく、割と誰とでもすぐに仲良く慣れた。
気がする。

それが歳をとるにつれて、どんどん内向的になっていった。
若い頃は「俺、俳優やってます!」とドヤ顔で大看板ぶら下げ謳歌していたものの、いつまで立っても鳴かず飛ばずで歳をとり、それはいつしか年齢コンプレックスや、不定職者であるというコンプレックスを抱え、日毎に劣等感はつのっていった。

そもそも、コンプレックスってなんだよ。と思う。
人と比べた先にある相違点。
自分はうまくやれないのに、あの人はうまくやれてるなぁ。ダメだなぁ。とか。

そんな人との違いに苦しまされている。
人との違いを受け入れることが出来ずに、恥ずかしいものだと感じて必死で隠す。

こうやって自分が他者との違いに否定的になり、隠すようになったのはいつ頃からだろう。
たぶん小学生の頃からだった。
自分には立派な「でべそ」がある。これまで自分以上のでべそを日本人で見たことがないくらいに立派である。

この立派なでべそを小学生の俺は恥じた。
自分が生まれた産婦人科の病院が世田谷区某所にある。
そこを通るたびに小学生の自分はへその緒を執刀した医者を恨んだ。
憎き病院めと睨みをきかせた。
プールの授業では、見せたくないがために積極的に授業を休んだ。
補講を受けざるを得ない時にはあのぴちぴちの水着をモデル並みのハイウェストで履き、でべその存在を抹殺した。

しかし、ハイウェスト水着スタイルはそれはそれで人との違いを生み、注目浴びることになる。
結局違和感を露呈してしまったせいで、「あいつには何かある」と感じていただろう。
いや、むしろたぶんみんな知っていたと思う。

隠すことで、触れさせない暗黙の了解がなされていたのかもしれない。
この空気感は大人になった今でも、ままあることであり、遭遇する。


そんな繊細な小学生はアフリカの人や南米の人のおへそを見ると、でべその割合が多いことに気付いた。何を見て気付いたのかは忘れたが。
ただ黒人のでべそを見て安心した。
一緒だ!あの人たちとは分かち合える!仲間だ!

肌の色の違いに関しては完全度外視であった。

内面外見問わずに、他者との違いを共有できるって大きな安心だった。
やっぱり他者と違うことや、少数であることにめちゃくちゃ抵抗があり恐怖を感じる。
少数であることがとても怖い。

本当に俳優失格なメンタリティ。


でも他者に対しては違うところを見つけると魅力として見ることもよくある。
海外になんか行くと、日本との文化の違いに面白さを感じる。
日本にいても、外国の人の気質というか自由さを見ていいなぁと感じる。
東京に住んでいるから、たまに海や山に行くと自然の気持ち良さに見惚れる。


違いを楽しめるのは少数派ではないからなのか。
自分ではなく、他者だからなのか。
多数から少数を見ているからなのか。

禿げていたり、太っていたり、背が低かったりは隠しようがないから、そこにコンプレックスがあったとしても日々曝け出している。
芸人の方はそれを武器にしている人も多く素敵だなと思う。

ただでべそは隠せてしまう。
というか日常生活を送る上で、人目に晒すことなどほぼない。
だから積極的に隠してしまう。
内面の弱さや性格もそう。出さなければ隠せてしまう。
隠せてしまう、他者との違いを受け入れずに隠すことを覚えてしまった塩素の香る夏の日。


でべそを直せば、そのコンプレックスは解消される。
けど、根源的なもの、他者と異なるということに感じるコンプレックは一生解決されない。
違いを受け入れ、楽しみ、自分の良さとして、アイデンティティとして解放したい。


でべその隠し方2
宙吊り状態になる際はTシャツイン!

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