俳句に想を得たピアノ曲《エフェメール》を、アリス・アデールの演奏で聴く

アリス・アデールとの出会い

 私がアリス・アデールを知ったのは、ほんの数ヶ月前のことです。
 『レコード芸術』(今は休刊しています)2023年6月号で、「作曲家フィリップ・エルサンとピアニスト、アリス・アデール」という記事を読んだのがきっかけです(書き手は相場ひろ氏)。
 紹介されていたディスクの中から最初に聴いたのは、アデールが弾く《フーガの技法》でした。聴き慣れた作品の方が弾き手の個性がわかりやすいと思ったのです。
 ちなみに、現在アリス・アデールのCDはたいへん入手しづらくなっています。なので私はApple Musicで聴きました。
 もう、出だしの数小節でこれは凄いと思いました。一音一音噛みしめるよう。非常に内省的な演奏です。曲によって響きの色合いが変わるのも魅力。J.S.バッハの抽象的な作品が、こんなに表現豊かに聴こえるとは。このピアニストがいっぺんに好きになりました。

エルサンの《エフェメール》を知る

 アデールの録音をもっと聴いてみたいと思い、次に選んだのがフィリップ・エルサン作曲の《エフェメール》です。日本語では《はかなきものたち》と訳されているようです。エルサンは初めて聴く作曲家。
 これがどのような曲であるかは、『レコード芸術』に掲載された相場氏の説明を引用することにしましょう。

《はかなきものたち》は24のミニチュア風小品からなる曲集で、第1曲〈この秋は何で年寄る雲に鳥〉から終曲〈旅に病んで夢は枯野をかけめぐる〉まで、それぞれが芭蕉の俳句に想を得て、歌われている情景をそっとすくい取っていく

『レコード芸術』2023年6月号194頁

 俳句に想を得たなんて、なんだかすてきではありませんか。まあ、私自身は俳句を嗜むような風流な人間ではありませんけれども。
 この作品を献呈されたアデールのCDは2種類あります。そのうち新しいほうを聴きました。
 《はかなきものたち》という曲集のタイトルから、きっとどれも叙情的なふわっとした音楽なんだろうな、と想像していました。しかしながら、決してそれだけではありませんでした。鋭く明瞭なタッチや力強い和音、時として地を轟かすような激しいフレーズも聞こえてきます。
 24曲それぞれに短いタイトルがついています。タイトルだけでも何かしらの情景は思い浮かびます。でも、あのフレーズやこの響きはいったい何を表しているのか。《エフェメール》は描写音楽でないとはいえ、いまひとつ意味がわからないのがもどかしい。
 元になった俳句がどういうものか知ればもっとこの曲がわかるかもしれません。
 CDであればたぶん、原作となった俳句についてライナーノートで読むことができたでしょう。音楽をストリーミングで聴く時に不便を感じるのはこうした情報がないことです。先ごろApple Music Classicalのアプリができて、クラシック音楽には多少の解説がつくようにはなりましたが、あまり有名でない作品に関しては手付かずの印象です。
 何か手がかりはないかとスマホで探す中で見つかったのが、作曲者フィリップ・エルサンのYouTubeチャンネル。アデールが《エフェメール》をリサイタルで演奏している動画が4回に分けて収録されています。ここに元になった俳句のフランス語訳がテロップで入っていました。
 私はフランス語が読めませんので、スマホに翻訳してもらいました。そこからキーワードになりそうな単語を拾って芭蕉の句を検索。その結果、7割近くの曲の元ネタを特定できたのですが、残りはどうしてもわかりません。
 同じようなことを考える人はいるものです。今回アデールを招聘したオフィス山根のブログには、1月9日の段階で21曲の特定に成功したとあります。さすがです!
 ともあれ、元の俳句がわかってみると、演奏から喚起されるイメージは格段に広がります。

アリス・アデール初来日

 そんな感じで《エフェメール》に親しみかけていたところに、SNSのタイムラインにアリス・アデール初来日のニュースが飛び込んで来ました。東京で2公演。1日目は《フーガの技法》。2日目はフレンチ・プログラムで《エフェメール》が含まれています。どちらも行きたかったのですが、1日目は諸々の事情で諦め、2日目のみ行くことになりました。

プログラムからわかったこと 

 リサイタル当日。会場で配布されたプログラムには、《エフェメール》に関してさらに詳しいことが書かれていました。この作品が作曲された経緯とともに、24曲全てに対応する俳句が記されています。ただし、第10曲〈Enchantement〉(魅惑)は原作不明とのこと。一体誰が何に魅惑されたのか気になるところですが、作曲者自身がわからないとなると、もう永遠の謎かもしれません。

当日のプログラム

 それ以外で、私が調べてもわからなかった俳句が明らかになりました。そのほとんどが、実は芭蕉の句ではありませんでした。原作は全て松尾芭蕉、というのは私の誤った思い込みだったのです。どうりで、いくら芭蕉の句を検索しても見つからなかったわけです。これでスッキリしました。
 このように、演奏会場で配られる作品解説は、特に聴き慣れない作品を理解する上で貴重な資料です。ありがたいです。

リサイタル前半

 セヴラックの小品に始まった前半。ドビュッシーの《練習曲》からは3曲。ピアノの響きの多彩さを堪能。とりわけ私は、〈対比的な響きのための〉でさまざまな響きが層になって厚い音響が作り上げられるさまに感嘆しました。続いてラヴェルの《鏡》から3曲。どれもすばらしいけれど、特に圧倒されたのが〈海上の小舟〉。大海のうねりに巻き込まれたかのような、ダイナミックな演奏でした。

リサイタル後半、いよいよ《エフェメール》

 休憩を挟んで後半。心待ちにしていた《エフェメール》です。
 Apple MusicやYouTubeで何度か鑑賞してきましたが、生で聴くピアノの音色はやはり格別です。殊に、弱奏や残響の微妙なコントロールは録音には捉えられていないことが多く、初めて聴く響きに「こんな音も出ていたのか」と驚きました。

 特に印象に残った曲の中からいくつか書き記しておきます。
 第4曲〈Dans l’air du soir〉(鐘消えて花の香は撞く夕哉)は、作曲者によるとドビュッシーの前奏曲に関連づけられているとか。そのことを知って即座に連想したタイトルがあります。〈音と香りは夕暮れの大気に漂う〉。元になったボードレールの詩は芭蕉の俳句とはあまり似ていませんが、それぞれの曲が醸し出すふんわりした余韻は、ともに「香り」という言葉から来ているように思います。アデールの弾く、いくぶんか滲んだ響きに、夕暮れ時の情緒を感じました。
 第9曲〈Bambous〉(雨に寝て竹起きかえる月見哉)。芭蕉の弟子の曾良が詠んだ句です。「雨なので早く寝てしまったけれど、目覚めたら雨が止んでいたから起きて月見をしたよ。たわんで寝てしまった竹がまっすぐ起き上がったように」-おおむねこんな意味でしょうか?(私の解釈が間違っていたら誰か教えてください)曲の始めは豪雨を思わせる猛烈な響き。それがふっと静かに。そして曲調は一転して清々しく。演奏を聴きながら、天上からさやけき月の光がまっすぐ降りてきたのが見えた気がしました。
 またしても圧倒されたのが、第21曲〈La vole factée〉(荒海や佐渡によこたふ天の川)。荒れ狂う波の凄まじいこと。この高齢のピアニストにこんな轟音を出すエネルギーがあるとは。そして満天の星。壮大なピアノの響きに包まれながら、宇宙の神秘を見た思い。この情景のどこが「はかなきもの」なのでしょうか。儚いとすれば、きっと、大自然や無限に広がる宇宙を目の前にした、ちっぽけな人間の方でしょう。
 終曲〈La lande〉(旅に病んで夢は枯野をかけめぐる)。重ねられた響きの中から、時折聖歌のような旋律が聞こえてきます。祈りを思わせるその調べは、まるで病床の芭蕉を慰めるかのよう…。
 24曲にわたる旅は長い余韻を残して終わりました。最後の音が消えてなくなって、万雷の拍手。
 拍手に応えるアリス・アデールが客席の後ろに向かって手を振っています。どなたかお知り合いでも?と思っていると男性がステージに駆け上がってきました。フィリップ・エルサンではないですか!作曲者もお聴きになっていたのですね。

アンコール

 アンコールは、シューベルトのちょっと物憂げなワルツ(D.145-6)。でも、ここで病の芭蕉はいったん忘れて、気分がほぐれたかも。
 続いてスカルラッティのソナタ(K.56)。頻繁に手の交差があり、視覚的にもリズミカル。弾き手だけでなく観客もノリノリなのが伝わってきます。こういうのもコンサート会場で音楽を聴く楽しさ。また、スカルラッティのソナタはチェンバロで演奏されることも多いのですが、アデールはたっぷりとした響きでモダン・ピアノならではのふくよかなサウンドを作り出していたのが印象的でした。
 ソナタが終わってひと呼吸の後、一斉にわーっと拍手。会場の思いがひとつになっていた感じです。気持ちの良い終演となりました。

最後に

 アリス・アデールの多彩な表現を生で味わうことができ、このリサイタルに来られて本当に良かったと思いました。フランスからはるばる来日して、素晴らしい音楽を聴かせてくださったアデールに感謝!
 また、雑誌でアデールやエルサンについて教えてくださった相場ひろ氏、アデールを呼んでくださった主催者の方々にもたいへん感謝しています。
 アリス・アデールがまた来日する機会があれば、今度こそ全部のプログラムを聴きたいです。

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