『空の思想』のわからなさを羅列してみる〜誰か優しく教えて下さい〜

この所急に『空の思想』がわからなくなってきて、非常に困っている。論理を以って空の思想に向かおうとすると、結局空の思想が何を語っているのかが全くわからなくなって、非常に困惑する。なので、ここで一旦、私が空の思想についてどう理解しており、何を理解していないかを纏めてみようと思う。

まず形式的に理解している事。
一。『空』とは、「有」でも「無」でもない。『空』であり、"中道"である。
二。一切は『空』である。般若心経ではこれを「色即是空 空即是色」「無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法」等と表現している。
三。『空』もまた『空』である。

これらを羅列しただけでも頭の排熱が追い付かなくなる。何が疑問なのか。
一。『空』まで『空』ならば、我々凡夫は何を拠り所にすれば良いのかわからなくなる。『スッタニパータ』では、確か釈尊は、「自己に拠れ、法に拠れ」と云う様な事を述べていた気がする。つまり、拠り所の存在は否定していなかったはずだが、『空』まで『空』ならば、よく考えればお手上げ状態である。覚者にとっては成程『空』かもそれないが、我々凡夫は何によって覚者に成れるのだろうか。

二。「無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法」とは何なのか。『空』は「有」でも「無」でもないのならば、「無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法」は些か問題がある気がする。「無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法」は漢訳であるが、この程度の疑問なら漢訳者も覚えた疑問なはずであり、にも関わらず「無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法」と、「無」と云う漢字を用いた理由は何か。「無」はただの比喩として捉えて良いものかどうかがわからない。

三。そもそも、「有」でも「無」でも無い状態とは、最早言語では詳しく表現出来なくて、やはり『空』の認識は、究極的には言語を超越している認識なのだろうか。それならばそれで私は構わないが、ならば具体的に『空』の理解へ向けて何を実践すれば良いのか教えてほしい。しばしば、『六波羅蜜』とかなんとか言われるが、私にすれば無理難題である。『六波羅蜜』を無理難題、だとする人間に、悟りはないのか。それは大乗仏教の思想とは反していないか。

大凡の疑問はこんな所である。恐らくもっともっと言語化に至っていない疑問はある。この日記を見て、「空とは何か」を私に教えても良いと云う仏陀の様な人が現れたならば、是非に優しくそっと教えて貰いたい。私は、これらの疑問を以って、「これ程無茶苦茶なんだから、即ち空の思想は欠陥だらけである」と云う立場を取りたくない。何せ、空の思想は日本人が非常に原始的な生活をしていた時代から今日まで生き残り、活発に考察されている思想なのである。それが、こんな凡夫一人の疑問に依って「駄目な思想」になるとは私は考え辛い。ある種の権威主義であるが、私は権威全否定否定主義である。権威は権威で存在し、やはり権威なのである。一定の尊敬はあっても良いだろう。

ここ数日こんな事ばかり考えているから、こんな事ばかり考えている、と云う事をこうやって日記にしてもまあ良いだろう。書いてみて少し落ち着いたので、『空』について考えるのはしばらく控えたい所だ。今は例のスーパーのイートインで昼食を済ませた後だが、帰ったら風呂で小説を読みたい。小説は楽で良い。

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