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児童文学のなかのお母さん

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今回の執筆者 中村冬美
専門言語   スウェーデン語
居住地    日本
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  5月12日は「母の日」だった。老若男女問わず、多くの人が母親のことを想い、実家を離れて久しい大人の皆さんも母親のもとを訪ねたり、電話をかけたりしたのではないだろうか。私自身は先日娘に「お母さん、なにかほしいものある?」と聞かれたので、
  文藝春秋社から出版されたモンゴメリ作松本侑子さん訳の『アンの夢の家』がほしいと答えておいた。日本初の全文訳なのだそう。近々娘がプレゼントしてくれることを心待ちにしている。

そこで今回は児童文学の中の「お母さん」についてタイプ別に書いてみようと思う。

①            最悪なお母さん。
『マチルダは小さな大天才』ロアルド・ダール作 宮下嶺夫訳 評論社
主人公はマチルダ。この子は小さな天才で、4歳にしてたった半年でチャールズ・ディケンズからアーネスト・ヘミングウェイ、ジョン・スタインベックなど14冊も読み、暗算もすばやい。
 ところが母親はそんなマチルダになんの興味もない。興味があるのは自分の見た目を磨くことだけ。マチルダの父親とふたりでマチルダに辛くあたり、物知らずだばかだとののしる。ごはんは出来合いのTVディナーで、テーブルは使わずソファに座って、テレビを見ながら食べる。こうなってはいけないという母親の見本があるなら、それはマチルダの母親だろう。
 マチルダの才能を理解し応援している、小学校の担任のミス・ハニーがマチルダの両親を訪問した時のこと。ミス・ハニーは両親に言った。
「ともかく、わたしがお話ししに来たのは、マチルダがすばらしく頭のいい子だということでした。でも、きっとあなたがたは、そんなこと、とっくにご存じなんでしょう」
それに対する母親の答え。
「もちろん、あの子が本を読めることは知ってましたよ。あの子はいつも自分の部屋に閉じこもって、ひっきりなしに、ばかな本を読んでるんです。わたしは才走った女の子は好きじゃないんですよ。女の子はまず、自分を魅力的に見せることを考えなくちゃ。そうすれば、大きくなってから、りっぱな夫をゲットできるんです。ブックス(本)よりルックス(外見)の方が大事なんですよ」
 子どもの興味を引き出すどころか、つぶしにかかる親たち。こういう親がいるとどれほど厄介かは、想像に難くない。

②                  子育てはナニーや家庭教師に任せきりのお母さん
『風にのってきたメリー・ポピンズ』P.L.トラヴァース作 林容𠮷訳 岩波少年文庫
 このお話に出てくるのは長女のジェイン、長男のマイケル、ふたごの赤ちゃんのジョンとバーバラだ。
 物語はこの4人の世話をしていたケティばあやがいなくなったところから始まる。お母さんにはこの4人の世話はとても手におえず、子守募集の広告を出す。そこでやってきたのがメアリー・ポピンズだ。ジェインとマイケルは、メアリー・ポピンズとともに、笑いガスで空中に浮き上がってしまうおじさんの家や、お誕生日と満月がぶつかると動物たちが檻から出てみんなで輪になって踊る動物園に行き、冒険を楽しむ。
 このお話はメアリー・ポピンズを中心に展開しているせいもあると思うが、母親であるバンクス夫人が子どもと一緒にいるシーンがほとんど出てこない。
 子ども部屋でお世話をしているのは常にメアリー・ポピンズだ。その他このバンクス家には料理番のブリルばあやと食卓の用意をするエレン、芝をかったり包丁を研いだり靴をみがいたりするロバートソン・アイがいる。
ここまで家事全般をしてくれる使用人たちがいて、子どもの世話をしてくれるナニーがいるとしたら、はたしてバンクス夫人は日がな何をして過ごしているのだろう。
 奥様同士の社交に忙しくしているのか、何か慈善活動でもしているのか。
その他フランシス・ホジソン・バーネット作『秘密の花園』やエーリヒ・ケストナー作『てん子ちゃんとアントン』に出てくる母親もこの類いと言えるだろう。
 1900年代前半にアメリカやヨーロッパで書かれた児童文学にはこういう母親がよく出てきた。物語の舞台は貴族の屋敷や資産家の家庭で、子ども達は親と会うのは夕食の時ていどで、後は子ども部屋でナニーと過ごす。お母さんの役目は美しく着飾って、夫とともにパーティーに出席すること。
 私の子どもの頃に読んでいた児童文学はたいていそのパターンだったので、なんで外国の家庭はそんなに金持ちで、家事をやってくれるメイドさんや子守が必ずいるのだろうとふしぎに思ったものだ。
『若草物語』のマーチ家なんて、しょっちゅううちは貧乏だからクリスマスプレゼントが用意できないだの、絹のパーティードレスがないだのと愚痴をこぼしてしているのに、なぜかメイドのハンナがいる。
 だが大人になり、翻訳の仕事を始めてからその疑問が解けた。ようはアメリカでもヨーロッパでも、字が読めて文学をたしなむのがそういったハイソサエティの家庭の人々だったので、彼らが慣れている環境を舞台にする必要があったのである。

③         異世界物の児童文学に出てくるお母さん
『ピーターパンとウェンディ』ジェイムス・マシュー・バリー作 毛利孝夫訳 望林堂完訳文庫
この『ピーターパンとウェンディ』に出てくるお母さんは、登場する場面は短いが、主人公ピーターと同じくらい、その容姿や性格が細かく説明されている。
 ご存知の通り一家は十四番地に住んでいて、ウェンディが生まれる前はお母さんが家族の中心でした。お母さんは美しい女性で、ロマンティックな心を持ち、人をからかうようなかわいらしい口元をしていました。ロマンティックな心は、まるで次々に中から箱が出てくる不思議な東洋の入れ子のようで、どれだけたくさんその心を見つけ出しても、必ずまだ次の一つが現れるのです。そして人をからかうようなかわいらしい口元には、ウェンディがどうしてももらうことのできない、一つのキスがありました。そこにあるのは確かで、右端にこれ以上ないくらいはっきり見えているのですが。
(ジェイムス・マシュー・バリー. ピーターパンとウェンディ (望林堂完訳文庫) (p.5). MOHRINDO. Kindle 版.)
 物語の中心はお母さんを離れて異世界へと飛んでいってしまう子ども達の冒険だが、それでもなお、お母さんの存在は特別だ。お母さんは子どもたちにとって、安全な港のようなもの。お母さんが家で子どもたちを想いひたすら待っていてくれていることがわかっているからこそ、子どもたちはネバーランドで危険をかえりみずに心ゆくまで冒険を楽しむことができる。最後の場面で待っているのは、温かな腕を広げたお母さんなのだ。
 アメリカのベストセラー、『ダレン・シャン』シリーズもお母さんはほんのちょっとしか出てこないが、主人公のダレン・シャンの心の中には常にお母さんがいる。『ムーミン谷の彗星』のムーミンママもまた、この類いと言えるかもしれない。


④                 完全に育児を放棄してしまっているお母さん
『おばあちゃんがヤバすぎる!』エンマ・カーリンスドッテル作 中村冬美訳 静山社
 ここで5月8日に出版された執筆者の訳書を紹介させてほしい。
 主人公リスベットは、ゆかいな遊びが大好きなおばあちゃんや海賊ねこのシクステンと一緒に暮らしている。おばあちゃんは元秘密スパイで、トチの木の高枝につるしたブランコから飛び降りたり潜水艦を乗り回したりと、驚異的な能力を持っている。夜には山賊のように庭でたき火をし、リスベットに若い頃の冒険物語を話して聞かせる。その物語もかなりホラが混じっているようだが。
 一方の孫娘リスベットは、わりと常識的できちんとした女の子。まだ小学校に行っていないのに字を読むことも書くこともでき、なにより好きなのは想像を生かしたゆかいな絵を描くことだ。
 リスベットが小学校に行きはじめる前のひと夏、ふたりと一匹は自転車レースをしたり、上述の高枝のブランコに座って、いもしないフクロウを追い払うためにホーホーと鳴きたてたり、2分の1クリスマスというおばあちゃんが勝手に作った祝日をおいわいしたりと日々ゆかいに過ごす。
おばあちゃんはリスベットが学校に行き始めて型に押しつけたようなふつうの人になってしまうのがいやで、なんとかリスベットが学校のことを忘れるように画策する。だがリスベットは学校に行って新しいことを覚えたり友だちができたりすることをちょっぴり楽しみにしている。
 このリスベットの両親は、物語の中には手紙やリスベットの思い出という形でしか登場しない。リスベットが生まれてから、ふたりが育児をしたのは、ほんの数日だ。リスベットは彼らが新婚旅行をしている船の中で産まれた。リスベットが誕生してまもなく、彼らは赤ちゃんのお世話がどれほど大変か気がつき、大急ぎでおばあちゃんに手紙を書いて迎えにきてもらい、そのまま預けっぱなしにしてしまう。
 お母さんとお父さんにとっては、リスベットを育てるよりも、船でシャンパンを飲みながら美しい夕日を見たり、火山の上でチョコレートとバナナのバーベキューをしたりしてふたりきりでロマンティックに過ごすことの方が大切だったというわけだ。
 そのくせリスベットが大きくなると、朝晩歯を磨けとかお皿をきちんと洗うようにといった手紙やお金の使い方について書かれた本などを送ってくる。
 リスベットは、お母さんとお父さんにとって自分はいらない子どもだったのだろうかと、思い悩み、涙を流す。
 事情があって育てられないのではなく、楽しみを追求するために自ら育児を放棄する、驚くほど無責任な人々だ。


 もちろん他にも児童文学に出てくるお母さんのタイプはたくさんあるが、とりあえず上記①~④にしぼって共通点を言えば「冒険の場には出てこない」ということだ。
 それはしごく当然のことで、児童文学であるからには主人公はたいては子どもか、子どもが自己投影をしやすい動物だ。読者である子どもたちが読みたいのは主人公が自分で頭を使い切磋琢磨し、危機を乗りこえて成長する姿であって、大人である親たちが成長する物語ではない。
 冒険の場に親がいたら子どもは自ら考え困難に立ちむかうことを放棄して、自分は守ってもらう方の立場に徹するだろうし、親の方は火を使っちゃいけませんとか悪い言葉を使っちゃいけませんとか細かく注意し子どもの行動をじゃまするだろう。

 では児童文学に出てくるお母さんたちの役割はなにか? これは私的意見だが、読者が現実の自分の母親と比較をするための対象である。
 子どもたちは主人公に自分を投影し、メアリー・ポピンズとともに動物園で動物たちと輪になって踊り、マチルダになって残酷な学校長を追い出し、ピーターパンと一緒にネバーランドへ飛んでいって海賊と戦う。読み終わったら満足して本を閉じ、おそらくはマチルダのお母さんのように最悪でもないけれど、ウェンディのお母さんのような慈母的なお母さんでもない、自分のお母さんに向かって「おかあさん、おやつちょうだい」と大声を出す。そして時々は自分のお母さんが、本に出てくるようなあんなひどい人じゃなくてよかった、又はあんなに優しくて上品ですてきなお母さんだったらいいのにと考える。それによって、だんだんに自分のお母さんを客観的に見られるようになっていく。
 児童文学とは、子どもたちが自分と親との関係性を構築するための、教科書とも言えるのではないだろうか? また将来こんな親になりたい、こんな親にはなりたくないと考える時の、ロールモデルを映し出してるとも言える。

 ところで『千と千尋の神隠し』で豚になったのがお父さんのみだったらと予想してみた。あのお母さんが千尋に冷たい母親であったとしても、とりあえずは千尋を逃がして自らお父さんの救出作戦を開始するのではないか。そうなったら『お母さんの神隠し』だ(湯婆婆の前で「ここで働かせてください! ここで働きたいんです」と大声を出しているお母さんを想像するとなかなかおもしろい)。
 娘にこの話をしたら、あのお母さんなら娘の手を引き「さ、暗くなる前に帰るわよ」とさっさとお父さんを見捨てていくだろうと予想していたが。

文責
 中村冬美(今井冬美):東海大学北欧文学科を卒業の後、スウェーデンのヴェクシェー大学(現在のリンネ大学)北欧言語学科に留学。主な訳書にインゲル・スコーテ作『私を置いていかないで』、アストリッド・リンドグレーン作『おうしのアダムがおこりだすと』、オーレ・トシュテンセン作『あるノルウェーの大工の日記』、ヒルデ&イルヴァ・オストビー作『海馬を求めて潜水を』、ミカエル・ダレーン作『幸福についての小さな書』などがある。みすず書房から出版された『きのこのなぐさめ』(枇谷玲子氏と共訳)は第六回日本翻訳大賞の二次選考対象作品になる。2021年に発売されたエミリー・メルゴー・ヤコブセン作『よるくまシュッカ』はテレビやラジオなどメディアで注目され、発売日と同時に絵本カテゴリーでアマゾンの1位になった。

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