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【コラム】歌い手がキャラクター化したのはいつ頃か【歌い手史を作るプロジェクト】

 白い髪が揺れる。赤い髪が憂いを満ちた表情を見せたと思うと、ふとした拍子に少年のような笑顔をみせる。

まふまふのアイコン

 ・・・・・・いいなあ。

 配信を一人ぐらしの部屋でみながら、床に転がってもだえる。日課の奇行である。

 そんな毎日を送っているときに、ふと疑問を抱いた。

 「歌い手はいつからどうしてキャラクターを持つようになったのか?」

 必ずと言っていいほど、歌い手は自身を描いたイラストを持つ。誰も疑問を抱かないほど普通に。2015年頃からは、歌い手とみなされる条件の一つにすらなっている。

 極論を言ってしまえば、歌い手は歌ってみたを投稿すればいいだけである。にもかかわらず、なぜ彼らは固有のイラストを持っているのだろう。


◆そもそもいつから

 そもそも歌い手たちは、いつから固有のイラストを持ち始めたのだろう。

 全ての歌い手についてデータを確認することは、まあ難しい。プログラムでもできればいいのかもしれないけれども、そんなテクニックはあいにく持ち合わせていません。

 ということで、例としてまふまふについて調べてみよう。知名度が高いうえ、現実離れしてキャラクター然としたショタのイラストを使っているので変化がわかりやすい。

 今のようなというのは、1白髪、2赤眼、3ショタの3条件を満たすものとする。

 ひとまず、まふまふのツイッター等をウェブアーカイブス(https://archive.org/web/)で調べてみる。

 ・・・・・・どうやら、2012年~2013年の間にアイコンが今のようなイラストに変わったらしい。

 2012年6月10日に投稿した「Mr.Music」 歌ってみた 【MR,SOUND_SMS】ではイラストでまふまふが高身長に描かれているのに対し、”そらねしい”が描いたと思われる2013年3月の公式ツイッターの背景イラストでは今のようなデザインになっている。

「Mr.Music」 歌ってみた 【MR,SOUND_SMS】より


まふまふのツイッターの2013年3月アーカイブより

 その後にもイラストに変化はあるものの、3条件はほぼ揺るがない。

 ツイッターが主なSNSとして機能している時代なので、ひとまず2012、3年頃に固有のイラストを持ち始めたといえよう。

 もう一人、96猫も例にとってみよう。猫耳がついた金髪の女性キャラクターを96猫の固有のキャラクターと定義して、同様に調べてみる。

 こちらは、2012年~2013年頃には大きく変わり始めたようだ。2012年8月発売の「歌ってみたの本GirlsBible」の砂糖イルノによる表紙では猫耳がついていない(https://ebten.jp/eb-store/p/9784047283190)が、2013年3月のアルバム特典イラスト(https://blog.nicovideo.jp/niconews/ni038144.html)では猫耳がついている。

「歌ってみたの本GirlsBible」


説明書きに時代を感じる。

 96猫については明確に断言するのは難しいが、おおむねこの時期あたりで変わったと考えていいのではないか。

 まふまふと少しずれるが、2012、3年頃に変化が起こったとはいえるのではないか。正確に何年と断言するには詳細な検討がいるが、10年代前半なら多くの人の体感とずれはないだろう。


◆なぜ10年代前半に

 いったいなぜ、この時期に固有のキャラクター像を持ち始めたのだろうか。

 言い換えれば、なぜこの時期にキャラクターを持つ必要に迫られたのか。

 理由としてぱっと思いつくのは、彼らがこの時期にメジャー進出を進めていったことだろう。

 幾度も繰り返して説明しているように、彼らは10年代前半にボカロブームの波にのって動画共有サイトの外への進出を進めた。その際に、(SNS上に限らない)アイコンとしてのキャラクターが必要になったのではないか。

 元来、彼らは自らの顔を外部にはさらしていなかった。これはニコニコ動画に限った話ではなく日本のネット空間全体(とくに2ちゃんねる)での傾向であり、ニコニコもその文化を引き継いでいた。

 彼らは顔を持っていなかったのである。

 だが、これではニコニコの外に出て行く上で、不都合が生じてしまう。

 たとえば、曲を売り出す際に、○○が歌った曲と文字でだけ説明するのと、アイコンを示しながらこの人の曲と説明するのと、どちらがわかりやすいだろうか。

 もちろん、前者だ。

 名前だけよりも、視覚的な情報がある方が伝わりやすい。2曲目以降も同じアイコンとともに紹介されれば、「前に聴いた○○って人の新曲か」と気づかれやすく、購入につながる可能性が高まる。

 ネット上での既存の知名度を背景にデビューを果たした彼らの場合、なおのこと気づかれる可能性は高まった方がいい。だから彼らは、固有のアイコンを持ち出したのではないか。


◆マークでは駄目だったのか

 聡い人ならここで「いや、時期の説明にはなっていても、固有のキャラクター像を持つ必要性の説明にはなっていない」と突っ込みを入れるはずだ。

 たしかに、これだけでは10年代前半にアイコンを持ち始めたことを説明できていても、なぜマークなどではなく固有のキャラクター像を持ち始めたのかは説明できていない。

 実際、近い状況にあったボカロPたちはイラストやマークを固有のアイコンとしている場合も多いから、個人判別のためという理由だけでは、10年代前半に固有のキャラクター像を持つことの説明になっていない。

 だから次は、なぜマークではなくキャラクターが選ばれたのかを考えてみよう。

 どうしてなのだろうか。

 ・・・・・・ざっと手持ちの資料を調べてみたが、あえてキャラクターを選んだ理由を述べている歌い手は見当たらない。学術的には全くよくないが、それほど自然なことだったのだろうと推測される。

 なのでちょっと視点を変えて、なぜ自然とキャラクターが選ばれたのか、そうする利点は何だったのかという観点で改めて考えてみよう。

 資料を漁り直しながら思案を巡らせる。・・・・・・すると、ひとつ参考になりそうな文章、というか表現があった。

 2014年の雑誌「ポピュラー音楽研究」の学者・増田聡の論文の見出しである。

「われわれは『存在しないもの』を聴いている」


◆私達は音楽の何を消費しているのか

 わたしたちは曲の何を消費しているのか。

 平易に言い換えれば、聴取している際に、わたしたちは曲のどんな要素を感じ取り、どんな感情を抱いているのだろうか。

 曲を聴く際に、わたしたちは曲のその物理的な現象としての音楽を感じ取っているわけではない。

 何の楽器の奏者の腕が良いとか、ボーカルの音域の広さとか。そういうものだけではなく、そのアーティストや曲自体が持つ文脈、曲とつながる自分自身の経験など、数え切れないほど多種多様なものを重ねて感じている。

 純粋に音楽の技術を聴いている、とか言う傲慢な人もいるが。

 たとえば、1997年放送開始のアニメ『ポケットポンスター』のOP「めざせポケモンマスター」を2024年に聴くとしよう。幼い頃にアニメを見た人は、当時の思い出を重ね合わせ、「懐かしい曲だ」と感じるだろう。

 曲を聴いている人間の当時の思い出なんてものは、曲それ自体の要素としてはもちろん組み込まれていない。懐かしいとは個々人の経験に依存するものでしかないにもかかわらず、思わず感じてしまう。

 また別の例で、『うたの☆プリンスさまっ♪ マジLOVE1000%』の「マジLOVE1000%」を聴いた時はどうか。MVやアニメ、原作ゲームをプレイした人は、キャラクターたちのエピソードや性格、そしてもちろん容姿も含めて歌とともに連想しているに違いない。

 ニコニコなら、MADを想像する人もいそうだけれども。

 自分の好みの容姿や性格のキャラクターがいれば、より好ましい曲として感じられる。キャラクターと曲は別なのに、それを感じ取ってしまうのである。

 もちろんこれは、懐かしいという感情に限った話ではない。また、一つの曲から一つの要素しか感じ取らず、一つの感情しか喚起されないというわけでもない。

 人は知識や経験に応じて、一つの曲からさまざまな要素を感じ取っている。その中で強く感じるものが何かということで、どんな曲かという感想が変わるに過ぎない。

 それが極めてホモソーシャル的であれば、長渕剛などの曲のように「男らしい」と言われる。それが性に強く訴えかけるものであれば、「アイドル的だ」と言われるだろう。

 一般論として、こうした要素は基本的に多く含まれた方がいい。

 嫌悪感を抱かれることもあるが、様々の人の琴線に触れるためには、多種多様な要素、言うなれば“フック”をたくさん持った方が良いからだ。何も引っかかる部分が無いよりは、幾ばくかマシである。


◆歌い手に当てはめて考える

 この知識を抑えておくと、歌い手たちが固有のキャラクター像を持つことのメリットは説明できそうだ。

 すなわち、マークではなくキャラクター像を持つ方が、自分たちの魅力となるフックを増やす働きが強かったのではないか。

 マークと美男美女のキャラクター。その2択を迫られた時、どちらを魅力に感じるかと言えば、たいていの人はキャラクターを選ぶだろう。

 美男美女のキャラクターは個々人の性に訴えかけるものがあるし、マークよりも当時ニコニコで歌ってみたを聴いていた層(※10~20代で特段音楽、芸術に強い関心があるわけではない層。ぼくもその1人だった。)には親しみがある。

 前段で説明したように、それは彼らが投稿する歌ってみたの魅力に直結する。

 「うたの☆プリンスさまっ♪ マジLOVE1000%」の部分で述べたように、まふまふの曲を聴く際、白皙の美少年が好きな人であれば、固有のキャラクター像も魅力に感じながら曲を聴くだろう。

 子犬感を感じさせるものが好きであれば、(のちの例にはなるが)すとぷりの莉犬の曲をより魅力的に感じるだろうし、中性的なものが好きであればVTuberの緑仙の曲も好ましくきこえるだろう。

莉犬のユーチューブチャンネルより


緑仙の公式サイトより

 マークでこの働きが全く無いかと言えば否になるが、やはりキャラクターの方がその効果が強いことはVTuberの隆盛からも明らかだ。

 マークの方が魅力的なら、わざわざ高いお金をかけてキャラクターを作る必要はない。たいていの人は、マークよりもキャラクターの方をより魅力的に感じて消費しているのである。

 歌い手たちがキャラクターを持ち始めたメリットの一つはそこにあったし、マークを選ばなかった理由の一つだったのではないだろうか。


◆他にもあるかも

 歌い手たちが固有のキャラクター像を持ち始めた理由について。本稿でぼくは、それを選んだ能動的な理由は見当たらなかったが、「その方がメリットが大きかったから」という結論を出した。

 ただ、これはもちろん雑な結論に過ぎない。学術論文しぐさで不備を自らあげつらうなら、やはりキャラクターを選んだ能動的な理由の検討は欠かせない。

 おそらくは、ネット上のコミュニケーションにおけるアバターの歴史をたどる必要があるのだろう。

 本文中で「それほどまでに自然なことだったのだろう」と書いたのはうそではないのだが、当時を生きていた層として(私がエビデンスだ論法で)言うなら、「アメーバピグ」あたりを題材に考察するべきだと思う。

 現在のVTuberにもつながる、けっこう良いテーマではないか。2010年代後半のVTuberとの近接も、触れておくべきテーマだと思う。

 とはいえ、そこまでやるのはぼくの手に余るので、他の方の研究を待ちたい。

 配信を見てもだえる時間を削ればいいのかもしれないが、それは外せない。生きる糧だから。

次回→【歌い手史2018~20】そして歌い手はいなくなる 天月の葛藤 第3の意味の終焉【歌い手史を作るプロジェクト】

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