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マティーニのオリーブと別れた女

あるバーテンダーが「最もマティーニが美味い」と言っていたのは青月のことだった。

厳密にはそのバーテンダーは、空のミキシンググラスの中でバースプーンを回しながらこう言った。

「今まで色んなバーテンダーのマティーニを味わってきましたが、青月のマティーニより美味しいマティーニに出会ったことはございません。そしてこの先もそれ以上のマティーニに出会うこともないと信じております」

バーテンダーの言葉を思い出し、わたしは住宅街の合間に密かに佇むバーに訪れた。

カウンターの右端では女がウイスキーをオンザロックで味わっていた。間に誰もいなかったが、私はカウンターの左端に座った。

バーテンダーはこちらに歩み寄り、適切な距離を保ち留まった。わたしはジン・トニックをオーダーした。

「ジンのお好みはございますか」

ジン・トニックをオーダーするとジンの好みを聞かれることがある。恐らくバーテンダーはわたしのカウンターの座り方や視線から、バーに「飲み来た客」ではなく「味わいに来た客」と判断して、ジンにこだわりがあるかもしれないと見込んだのだろう。

味わいに来ているのはその通りだが、本物のバーテンダーであれば何のジン使っても美味いカクテルを作るはずだ。

わたしが「お任せします」と答えると、バーテンダーはタンカレー/ジンを選び、メジャーカップで30mlをグラスに注いだ。
次いで素早くジンを氷に馴染ませるとトニックウォーターを注ぎ、ライムを絞り、ジン・トニックが完成した。

「お待たせいたしました。ジン・トニックでございます」

深夜3時に味わうには、いささか爽やかすぎる味わいだったが、渇いた身体が潤っていくのが感じられた。

右端の女は文庫本を読みながら、静かにグラスを傾けていた。氷はほぼ溶けていたから、時間をかけてウイスキーを味わっているはずだ。

カウンターには小さな音でクラッシクが流れていた。ジン・トニック中で揺れる氷の音の方が、存在感を露わにしていた。窓の外を見れば、住宅街は暗がりに包まれていた。

静けさと暗闇の精度が最も高まる午前3時過ぎ、わたしはマティーニをオーダーした。「マティーニ」という響きを耳にした女は、文庫から目を離したが、すぐにその視線を元に戻した。

女が手にしていたのは岩波文庫のカバーだったから、古典小説を読んでいるのかもしれない。午前3時のバーカウンターで読まれる小説が気になったが、わたしは女とチェーホフの話をしにきわた訳ではないし、女もそれを望んではいないはずだ。

ジン・トニックで好みのジンの銘柄を尋ねるバーテンダーはいるが、マティーニでそれを尋ねるバーテンダーはいない。バーテンダーは冷凍のタンカレー/ジンと常温のノイリープラットを手にした。

ミキシンググラスの中で素早いステアがはじまると、わたしは左端の席からバーテンダーの右手の回転を数えた。規則的に氷の周りを液体が回転し続けること121回。バーテンダーの右手が滑らかに止まると、オリーブが添えられてマティーニが完成した。

ジンの中からベルモットが少しずつ開いていく味わいだった。ジンがベルモットをベルモットがジンをけん制しながらも、互いが自らを自重したような調和が味わいに表れていた。

一口目を味わうとバーテンダーがわたしの斜め前に立った。

「実はあるバーテンダーが、青月のマティーニが最も美味いと言っていました。ジンとベルモットが調和されて、わたしにとってもとても美味しいマティーニです」

バーテンダーは表情を緩めて言った。

「誠に恐れ入ります。ただしその判断に至るには、いささか早すぎるかもしれません」

そう言うとバーテンダーはわたしに一歩近づいた。女は我関せずと文庫本の文字を追っている。グラスのウイスキーはあとわずかだ。

「とても美味しいという判断には早すぎると」

「左様でございます。マティーニの味わいは一口目が最も精密です。精密さにおいて二口目以降は、一口目には敵いません。特にオリーブを味わった後は、僅かながら味が崩れはじめますが、オリーブを味わってからが本来のマティーニでございます。着飾った女の服を脱がしてから本質に迫るように」

わたしは黙ってマティーニの二口目を味わった。一口目の精度はまだ保たれている。

「もっとも着飾った女で満足されるのであれば、お客様の判断は真っ当でございます」

バーテンダーは静かにわたしから退いた後に女の斜め前に立ったが、その間に会話はなかった。

わたしはバーテンダーの言葉について考えながらマティーニの精度の移り変わりを味わった。

着飾った女の本質に迫る。着飾る前から本質を露わにする女もいれば、最後まで本質を見せない女もいる。わたしは真に本質に迫った女の記憶を掘り起こしながら、オリーブを口にした。

塩気が味覚に留まっている間にオリーブなき後のマティーニを味わっていると、女の視線を感じた。わたしのグラスの移り変わりを見ながら、女は残りのウイスキーを飲み干し、文庫本を閉じた。

「マティーニを」

店内に女の声が静かに響くと、バーテンダーは予め予測していたのか既に冷凍のタンカレーを手にしていた。

ミキシンググラス中でジンとベルモットと氷を整えると、バーテンダーはバースプーンを回しはじめた。女の視線は、規則的に回転を続けるバーテンダーの右手に注がれて離れなかった。わたしと同じくグラスの中で軽やかに回る右手の回転を数えているのかもしれない。

誰も言葉を発することのないバーカウンターには、わずかにバーテンダーがステアする音が響いていた。静けさの精度が高まった末にバーテンダーの右手はやはり121回転で止まった。グラスにステアの余韻が残っている間にバーテンダーは女の前にマティーニを注いだ。

「お待たせいたしました。マティーニでございます」

グラスが差し出されると、女は一口目でグラスの半分以上のマティーニを味わった。

左右のマティーニは共に121回転で導き出されたが、味わい方はまるで異なっていた。

女は三口でマティーニを飲み干して、バーテンダーと目を合わすと文庫本を手にしてカウンターを立った。

女はわたしの背中をすり抜けて街の暗がりに消えていった。

残りのマティーニはあとわずかだ。味わいの精度は崩れはじめて、本質に近づいた。

かつて一度だけ真に本質に迫った女がいる。その女が最後にわたしに言った言葉を思い出し、残りのマティーニを味わった。

「わたしはあなたを愛している。だからあなたとは一緒にいることは出来ないの。いずれあなたにもその意味が分かるときが来るから」

女はそう言ってわたしの元から完全に姿を消した。わたしは女を探し続けたが、連絡を取る術もなく跡形もなく女は行方を暗ました。しばらくの間、わたしは途方に暮れて、酒を飲み続けた。今までのように酒を味わうことができずに、ただ浴びるように酒を飲み続けていたある夜に、バーテンダーが青月のマティーニのことを教えてくれたのだ。

そして女が最後にわたしに残した言葉の真意を理解したときに、わたしは味覚を取り戻した。

マティーニのグラスを空にすると、バーテンダーは再びわたしの斜め前に立った。

「本質には迫れましたか」

「はい、マティーニの本質には」

「それは何よりでございます」

バーテンダーはそう言うと不敵な笑みを浮かべた。

右端の席に残されたグラスには、未だオリーブが残っていた。







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