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キャンセル・カルチャーについて色々

今週のシェアハウスの食事会も楽しかったな。
今週は6人と比較的少なめ。
本好きのメンツが集まってた。
色々好きな本を語り合うのを通してディープな話をしていた。
そん中でキャンセル・カルチャーについての話もあった。
その時色々思ったこと気づいたことがあったから書いていこうと思う。

キャンセル・カルチャーについてまず説明しようかな。
wikipediaの説明が分かりやすくて「容認されない言動を行ったとみなされた個人が排斥・追放されたり解雇されたりする文化的現象を表す」とある。
よくキャンセル・カルチャーが起こってるのは日本ならSNSの炎上か。
ちょっと前だったら東京五輪で作曲家の小山田圭吾って人が障がい者いじめを昔やっていたということが発覚して炎上して降ろされた。
最近やったら松本人志がテレビに出てこやんくなったのとかもそうか。
アメリカだと問題発言をしたと学生が抗議運動を起こしてハーバード大学の学長が今年の1月くらいに辞任してた。

キャンセル・カルチャーに対しては俺はなんとなく違和感を覚えてるんよな。
まずキャンセルをしようとしてる人たちの説く「正義」に対して同意しきれないとこがある。
そもそも正義ってなんなん?って思うし。
ユダヤ人差別をすんなって人の気持ちも分かるけど表現の自由があるやんって意見も分かる。
何が正義で何が悪かってまじで見る人によるから、それを押し付けて人をどうこうしてやろうっていうのはなんか嫌やな。

次にキャンセル、排斥・追放っていう手段が正しいとは思えない。
小山田は昔の記事を基に障がい者いじめを自慢していたとしてマスメディアやSNSに取り上げられて炎上していた。
しかしその記事に小山田が昔やったことがやりすぎだったと反省している箇所があったことはあまり取り上げられなかった。
間違ってると思うから叩くっていうより叩きたいから叩くっていうのが多い気がする。
大義名分と対象が見つかったから叩いてる感じがする。
社会心理学者のジョナサン・ハイトが「人間は自分の感情を理論で合理化させようとする。感情は理性に先立つ」みたいなことを言ったけどほんまそうやなって思う。
どんなに悪いことをした人間がいても私人のできる領分を超えて人を攻撃するのはなんか違うなって。
それにそういう社会で生きてるのは怖いっていうか。
俺は多分どちらかというと叩かれる側の人間やと思って生きてるから、今のXやらYoutubeやら5chやらの相互監視社会っぽいSNSは疲れる。
互いをいつでも攻撃する世界よりも寛容な世界で生きたい。

じゃあどうするのって話やけど。
まず思うのはそういう場所からは離れた方がいいんじゃないかな。
俺もぶっちゃけ短気で器が小さいから比較的荒れにくいnoteですらレスバしてしまったことがある。
Xとかつべ、5chにおったら尚更な気がするな。
結局感情とか衝動を刺激してくる場所で理性を保つのは難しい。
攻撃されてもしても疲れるし、他者に関してはなんも思い通りにならんから終わりがない。
喧嘩が起きやすい場からは素直に逃げた方が良さげ。

次によく勉強したほうが良い気がする。
特に歴史や宗教学、哲学の人文系。
人文系を学ぶってことは、国や時代が違う人達がどういった行動を取って思考してきたかを知るってこと。
異なる時間、空間を生きてきた人たちのことを知ること。
そうすると自分の中にも多様性が生まれる。
自他のことをメタで分かろうとちょっと冷静になって俯瞰して見ようとするようになる。
そしたら正しさっていうのは移ろいやすいっていうか、絶対正しいってことはないんやって実感が湧いてくる。
違う考えを持ってる人がいても寛容になれる、しゃーないよなって思える。
そしたらキャンセル・カルチャーも起きにくいんじゃないかなー。

今回はキャンセル・カルチャーについて色々書いてみた。
集団で個人を排斥するために行動するのはなんかちゃうなーって思えるけど、政治系のデモとかストとかになってくるとまた良いとも悪いともまだ思えんなー。
うーん、世の中わからんことばっかやなー。


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