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「山毛欅と樅」「ぶなともみ」「ブナトモミ」。漢字とひらがなとカタカナ。同じ言葉でもイメージチェンジしてしまう不思議。

埴谷雄高の著作「濠渠と風車」の初めに「寂寥」と題されたお話がある。その本にして8ページくらいの量なのだが、何回読んでも膨大な時間の流れと広大な宇宙とある種の夜を感じる。

山毛欅と樅の森の朽ちた木の下に石のように座っている「そいつ」。
深くうねった谷を超えた向こうの糸杉の山にいる痩せた狼。
飛び立つ白い小さな羽虫。漆黒の夜のような寂寥。
それだけのページの中で、時間の流れは止まり果てしなく続き、風が吹き抜ける。
月が出ていないのに明るい夜。そんな時間が好きなのに、どうにか捉えてみたいのに言葉では言い表すことができない。その瞬間の透明な空気、決して冷たくはなくて、もちろん温かでもない。湿っているようで、乾いてもいる。
確かにそんな夜が存在するし、その夜に居合わせたことが何度もあるのに、その感じを伝えることが出来ない。

「寂寥」の中に「その夜」はある。ひとつひとつ、一行一行、紡がれた言葉の中に「その夜」はある。そしていとも簡単に「その夜」の中に連れて行く。
埴谷雄高は色々な本を書いているけれど、この「寂寥」は童話のよう。
そして、この「寂寥」を読んでいると、レイ・ブラッドベリの「霧笛」を思い出す。

この海原越しに呼びかけて、船に警告してやる声が要る。その声を作ってやろう。これまでにあったどんな時間、およびどんな霧にも似合った声を作ってやろう。
一晩中起きている人のそばにある、空っぽのベッドに似合った、また、訪ねていってドアを開けても人のいない家に似合った、また、葉の一枚もついていない秋の木に似合った、そんな声を作ってやろう。鳴きながら南方に飛び去っていく鳥に似た音、また十一月の風やきびしい寒い浜辺に寄せる波に似た音だ。あまりにも孤独なために人がそれを聞きそらすはずがなく、また、それを耳にしたものなら誰でも心ひそかに忍び泣きをし、また、それを遠い街で耳にする人には、わが家がいよいよ暖かく思われ、うちにいることがますますありがたく思われる。そんな音を作ってやろう。おれはわれとわが身を一つの音、一つの機械に化してやろう。そうすれば人はそれを霧笛と呼び、それを耳にする人はみんな、永遠というものの悲しみと、生きることのはかなさをさとるだろう。

レイ・ブラッドベリ 大西 尹明訳(創元SF文庫)「ウは宇宙船のウ」霧笛より

一人でいることを孤独だなんて思わない。周りにたくさんの人がいる時の方がひどく孤独を感じる。孤独を悪い事だとも思わない。孤独は自由であるための必須アイテムだし「馬鹿の考え休むに似たり」かもしれないけれど、自由自在に思考することができる。誰に迷惑をかけるわけでもない。
簡単に答えが出ることを考えてもつまらない。死ぬまで考えたとしても答えが出ないことを繰り返し考える方が面白い。なぜ?どうして?どこに?どこから?

私には表現することのできない夜や孤独を、レイ・ブラッドベリも埴谷雄高も、私もとりあえず同じように持っているであろう言葉の中から、選んで組み合わせて、目の前に映し出してくれる。

ため息が出る。
自分が感じていることなのに、ましてや経験したことのある夜なのに、「あのね、こんな感じ。」とすら伝えることが出来ないなんて、どうして。

昼間のクリスマスローズ。素直な白と緑。

よく晴れた日に、晴れていればいるほど、寂しく感じる時がある。誰しもそう感じることがあるんだろうと思う。こんなにいい季節なのに。
そんな季節の昼間、人も緑もあまりにも濃厚すぎる生きる力に満ち溢れていて、何もかもが圧倒的で、逃げ場がないような気になってくる。

そしてそんな季節の夜、ベランダに立ってこの時期特有の香りと温もりをはらんだ風に吹かれていると、どうしても少しおセンチになる。

夜のクリスマスローズ。こっちの方が本当の姿っぽい。

そういう時は、こういう本を引っ張り出して拾い集めて読んでいく。
思いっきり夜のうちにその世界を堪能すれば、明日の朝は何事もなかったように元気に「おはようございます」って言えるような気がするから。
空を見上げて「あーーーいい天気だあっ」って満ち溢れる生の中に割り込んでさえいける気がするから。

おセンチになったら、一晩中好きなことをしてやり過ごそう。そう、やり過ごすことが大切。そうすれば、望んでも望まなくても、勝手に朝が迎えにくる。
終わりの始まりを連れて。

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